古希の富士山に登る  別所宗郎


(富士山の象徴、お鉢)

 初めて富士山を見たのはいつだったろうか。私は三重県の生まれのなで、子供のころに目にすることはなかった。長じてから唯一チャンスがあったのは、高校の修学旅行で東京に出た時で、その行き帰りの東海道線の車窓から見たかもしれない。しかし当時、田舎から東京に出る時は、たった1本あった夜行の急行列車を利用するのが通例だったので、見えなかった可能性が強い。そうすると初見参は、東京に進学した1955年ごろのことになるだろう。その後50年の間、事あるごとに見てはいるものの、ついぞ登ったことはなかった。
 その富士山に古希を機会に登ることになった。私の予てからの計画では、富士山へは、体が衰えていよいよ登山ができなくなったと自覚した段階で、最後の締めくくりに登ることになっていた。その目論見を崩すことになったのは、「山なかまシリウス」の仲間で、今年一緒に古希を迎えたKさんから「古希を記念して登りましょう」と誘われたからだ。そして、これを横で聞いていたAさんが即座に“応援団“を買って出てくれた。こうなればもう逃げる訳にはゆかず、時期を見計らって実行することになった。
  良く知られた論語の「子日、吾十有五而志于学・・・」の末尾に「七十而従心所欲、不踰距」とある。つまり孔子は「70歳になると、自分の思うままに行動しても、度を過ごすことがなくなった」と言っているのだ。孔子が生きたのは「五十而知天命」の時代で、70歳といえば「古来希れ」どころか、古今東西の希有の存在だったであろう。恐らく彼は74歳で没するまでの余命を、孤独の中でやっと生きている状態ではなかったかと思われる。が、今は違う。90歳になって初めて長命だと言われる国に生きていると、70なんて歳はひとつの通過点に過ぎず、順調ならあと15年ないし20年の年月を過ごさなくてはならない。言ってみれば古希というのは中途半端な年齢なのだ。そしてこの年齢は、人生の分岐点の一つになっているような気がする。最近ノドがイガイガするので、医者に診せたら「ストレスですよ」と、こともなげに言われた。そういえば、この頃もう一人の自分が「急がないと、もう後がないよ!」としきりに急(せ)かしにかかっている。その手の焦りからくる<ストレス>。またある時は、山道で小石に躓いたり、岩を攀じながら、もう一歩の足が出なかったりする度に「古希だものなー」と自答する<マイナス思考>。「いやだネー、我ながら」と思う気持ちを、富士登山で吹っ切ってやろうと考えた。
 9月4日、富士宮口新五合目でテント泊。5日早朝出発した。古希の2人を他の5人が励ますように登る。じりじりと肌を灼く太陽と火山灰の道、シーズンを終え雨戸を立てた山小屋、赤茶けた斜面に点在するオンタデ草、遮るもののない展望、何もかもが目新しい。喜々として歩いていたら約4時間で山頂の神社に着いて、拍子抜けの感じがした。考えてみれば、新五合目からの標高差は1400m弱で、鴨沢から登る雲取山の標高差より少ないのだ。
 この山は、ただひたすら登るだけの単調な山で、日本の山特有の情緒が感じられない。木がない、緑がない、水もない荒涼として乾燥した斜面が広がっているばかりだ。しかし、視界に入るスケールのでかさは抜群だ。日本の最高所、剣が峯から見た火口、お鉢の大きさには圧倒された、登頂の記念にその写真を撮ろうと、24ミリの超広角レンズを用意していったが、それでも画面をはみ出す始末で言葉もなかった。調べてみると、裾を広げた富士山の底面の直径は50キロあるというから、北アルプスの白馬岳から穂高岳までをすっぽり覆ってしまう規模なのだ。それに斜面一帯に火山岩がごろごろしていて、侵食や風化による整形が進んでおらず、まだ壮年期の山であることを伺わせていた。時々流れる再噴火の話も、この若さならありうるかなと思った。
 一緒に登った“応援団”各位のお陰で、古希の良い思い出ができた。「富士山は眺める山で、登る山ではない」と良く言われるし、私もそう思っていた。でも、こうやって登ってみると、やっぱりその通りだと頷く反面、剣が峯に立って、天下を睥睨(へいげい)した時、やはり日本を代表する山であることを実感した。
 一緒に登った仲間(敬称略)は、赤沢東洋、川崎義文、木村修、玄陽成(東京山楽会)、長岡和義(同)、
西山常芳、別所宗郎の7人。

 


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