◆秋の山 四題           赤澤東洋

 気になっている山って誰にもあると思う。
 電車や車の車窓から遠くに望む尖った山、雑誌で紹介されていた山、先人の紀行に出ていた山等々人それぞれに未見の山への憧れはいろいろあるに違いない。
 行ってみなくてはと思いながら行きそびれていた山のいくつかに2009年秋行ってきた。

<1.二岐山 1544m> <2.燕巣山 2222m、四郎岳 2156m>
<3.荷鞍山 2024m> <4.大源太山 1764m>

 

1.二岐山 1544m  南会津の双耳峰             21年9月22日
 東京から仙台へ向かう東北新幹線が新白河駅を過ぎると左手の那須連峰の北に丸みをおびた双耳峰が目に入る。
 これが江戸時代の谷文兆の描いた「日本名山図会」にも登場する二岐山である。
 その昔ダイダラボッチという大男が山を跨ごうとして股間の一物を山頂に引っかけ、山が割れて双耳峰になったという伝説があるという。
 今日は久しぶりに妻と一緒だ。ここ6〜7年は親の介護問題があってなかなか一緒に出かける事ができなかったのだが、もろもろが解消しようやく出られるようになったというわけである。
 山麓の二岐温泉は平安時代中期に開湯されたとされ、孫引きだが聖武天皇の「みちのくの白河の二岐に天下の名湯ありと聞くは真か」という言葉が残されているそうだ。
 6〜7軒の温泉宿があり、その中の「大丸あすなろ莊」は日本秘湯を守る会の代表をしていることで知られている。
 ただ、秘湯といえば車も通わぬ交通不便な小さな山の温泉宿というイメージがあるのだが、今では東北本線須賀川駅からバスの便もあり、素朴な山の宿を期待して行くと裏切られた思いをするのではないだろうか。
 登山口は温泉街を通り過ぎ二俣川の橋を渡り狭い林道を4q程行った御鍋神社入口の先にある。
 御鍋神社はご神体が鍋という珍しい神社だ。 車も10台位は止められる。
 登り出すとすぐにミズナラ、アスナロ等の巨木が鬱蒼と茂る八丁坂という急登となった。
 結構な急坂で岩がゴロゴロし歩き難い。
 人の気配も動物の気配も感じられない静まり返った原生林、苔むす大岩、何やら深山幽谷の趣がある。
 この辺り昭和30年代までは相当数のクマが棲息していて、熊獲りが盛んであったらしい。
 狩りの方法は冬眠中の熊を熊穴から誘い出し、ノザシという槍の穂先に似せて作った1尺位の刃物を寝ぼけて頭を出した獲物の脳天めがけて打ち込むという極めて原始的なやり方だったという。
 今の大和館の先代藤原寅三郎はその名人だったと伝えられている(尾瀬と会津の山々・修道社)。
 踏み跡は不明瞭だが、赤テープや赤ペンキの目印に導かれドンドン登る。
 相棒も久しぶりの山なのだが何とか付いてきており顔色もまずまずのようで、まあ大丈夫だろうと安心する。
 ひとしきり大汗かいて休みたくなったら、視界が開けブナ平という平坦な台地に着いた。
 登山口から丁度1時間位だった。
 かつて山毛欅の原生林だったこの一帯は昭和40年代に大規模な伐採が行われ、すっかり様相が変わり明るく開けている。
 これでは熊も棲み難かろうと同情せざるを得ない。
 すぐにリンドウの咲く小さな湿地帯があり、その先に丸いこんもりとした男岳頂上が望まれた。
 右に大きく曲りクマザサの茂るなかをしばらく行くとまた急登となり石楠花や犬柘植の木の根、岩角にすがりながら登る。
 背後を振り返ると旭岳(赤崩山)1835mがひときわ高く尖っていて格好いい。
 その手前丸くぽっこり頭だけ見えるのは甲子山で4年前に大怩ウん、川崎さんと阿武隈川南沢を詰めた時の記憶がよみがえる。
 登山口から丁度2時間で二等三角点のある男岳(西岳)1544mの山頂に出た。
 狭からず広からず南北に縦長の頂上には2人連れの先客がいた。
 頂上は開けており三本槍、旭岳等那須連峰の眺望が素晴らしい。
 磐梯山や飯豊連峰も見えるはずなのだが、北側は生憎うっすら霞がかかり遠望がきかないのが残念だった。
 すぐ目の前はこちらより40mほど低い女岳(東岳)だ。
 女岳を経て二岐温泉までぐるっと一周する周回コースもとれるが、今日は温和しく来た道を引き返すことにした。
 登り2時間足らずだったが、結構な急登もあり久しぶりの登山となったわが相棒の足慣らしには丁度いい案配だったかと思う。
 下山途中ブナ平付近に山ブドウがたわわに垂れ下がっているのを発見し、収穫する。山の幸、これこそ今頃の山行の楽しみの一つである。
 いつもの事だが、相棒はというと仕込みの面倒を思うのか今一つ浮かぬ顔だが、お父ちゃんは発酵させた葡萄酒に思いを馳せ、嬉々として高い枝にからみつき幾重にも垂れ下がっている房をめがけて飛びついていたのでありました。

ブナ平より男岳

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2.燕巣山2222m&四郎岳2156m   奥日光の静寂峰      21年10月23日
 有名な日光と尾瀬の間にありながら、人に知られることなくひっそり取り残されている山、それが燕巣山と四郎岳である。
 7年前の初秋白山書房の蓑浦社長やエッセイストの遠藤甲太氏等とともに尾瀬の入口大清水から根羽沢沿いに物見山から鬼怒沼へ抜けたことがあった。
 右手に大きな山が連なって見え気になったが、これが燕巣山と四郎岳を意識した最初だった。
 この山域に触れた古い文献を探してみたが、武田久吉博士の「尾瀬と鬼怒沼」が最古の物ではないかと思う。
 本編中に収められている「初めて尾瀬を訪う」は氏が1905年(38年)7月、初めて尾瀬を訪ねた時の旅行記だが、尾瀬から日光への帰り道に、粘沢(今の根羽沢)の河床を辿り、アスナロの密藪に眼鏡を飛ばされながら四郎岳の東肩を乗り越したと記されている。
 それこそ今の四郎峠に当たると思われるが当時はまだ道は開けてなかったらしい。
 丸沼へ下る道も背丈を没する根曲り竹の密叢で身動きとれなかったという。
 当時、尾瀬の玄関口は日光であり、沼田から入れるようになるのは上越南線が開通する大正末期になってからとなる。
 この頃の丸沼は無人で文字通りの幽境であった。
 それから15年後の1920年(9年)10月、小暮理太郎が友人と金精峠から鬼怒沼を経て川俣温泉に抜けた紀行文もある。
 名著「山の憶い出」に収められている「秋の鬼怒沼」で、この時は金精峠を振り出しに温泉ガ岳に登り、根名草山の手前から湯沢峠を経て燕巣山、物見山(毘沙門山)、鬼怒沼へと抜けている。
 まだ根名草山から日光沢に抜ける富次郎新道が開かれる前のことで、今から考えると随分遠回りで、根曲り竹の密藪に手こずり期待した燕巣山の頂上は眺望がきかず心が満たされなかったと記している。
 15年前に武田久吉が通過した頃は無人だった丸沼にはあたりとは調和しない養魚場の赤い屋根が光っていたというから周辺の開発のピッチが早いのに驚く。
 それから2年後の1922年(11年)10月には、酒を愛し、旅を愛した漂泊の歌人若山牧水が片品川を遡り、この養魚場に一夜の宿を請い、翌日金精峠を越えて日光に抜けている。
 沼では紅鱒を釣ったりし、その様子は紀行集「みなかみ紀行」に詳しいが、番人の老爺と鬱屈した養殖技手の老人との遣り取りはなにか物哀しく心に染みるものがある。
    登り来し この山あひに 沼ありて 美しきかも 鴨の鳥浮けり   牧水
 栃木県今市の住人鈴木富次郎が奥鬼怒に八丁ノ湯を開業したのが、1929年(4年)のことで今市への近道として根名草越えの新道を切り開きそれが富次郎新道として今に継がれている。
 武田や小暮より1世代以上後輩となる辻まこともこの辺の山域に魅せられ跋渉した1人だ。
 画家、詩人、エッセイスト、イワナ釣りの名人、バンドリ撃ち猟師、スキー指導員、ギターの名手と多芸、多才の人辻まことは丸沼から湯沢峠を越えて鬼怒川源流に抜けた印象深い紀行文を2つ発表している。
 前置きが長くなった。そろそろ本題に移らねばなるまい。
 10月下旬天気予報で晴れマークを確認し車を飛ばした。今日は1人だ。
 沼田から国道120号線を金精峠へ向かう。ゴンドラのある丸沼スキー場を過ぎると左手に丸沼を隔てて二つの大きな山が目に入る。
 右の丸い頂上が燕巣山、左の片流れ屋根状の峰が四郎岳である。
 上尾から3時間程で丸沼温泉駐車場着。
 シーズンには釣りやボートで賑わうという丸沼だが平日のせいもあるのだろうが、広い駐車場は閑散としている。
 湯沢峠方面の標識が目に入ったが、そちらへは向かわずに四郎沢の涸れた河床を渡り四郎沢右岸の林道を行くことにする。
 武田久吉が藪に手こずりながら越えてきたコースを今日は逆から辿ることになるわけで、武田が越えたのをきっかけとして、その後日光から大清水への近道として峠道が整備されたのだが、今は廃道になっており、かすかにこちら側だけ刈り払われているという。
 手元にある昭和43年版実業の日本社発行のブルーガイドブックス「尾瀬」には、四郎峠越えとして本ルートが紹介されているが、40年前の当時でも「あまり通る人のない静かな峠越えコースで、車で丸沼・大清水間を行ける現在では、必要があって通る道ではなくなった」と記されている。
 40年前でそれだから今ではすっかり皆に忘れられ取り残されている峠道というわけだ。
 林道はじきに途切れ四郎沢の河原となり砂防用堰堤を何回か越えるようになる。
 要所、要所にケルンや赤テープがあるので迷う心配はなさそうだ。
 小さな流れを横切り、沢筋をしばらく行くと沢はナメ状となり、その先の二俣で踏み跡を辿って小さな尾根に取り付いた。
 ロープも垂れ下がっている。思ったよりも人が入っているようだ。
 物好きはどこにもいるのだなあと思う。左右を沢に挟まれたやせ尾根は少し行くと再び沢に下り、その先で又尾根に取り付いた。
 尾根道は細いが笹やぶはしっかりと刈り払われていて歩きやすい。
 武田久吉が根曲り竹の密藪に手こずったというのはこの辺りに違いない。
 確かに切り開かれていなかったらこの密叢では身動きとれないだろう。改めて先人の労苦が偲ばれるのだった。
 傾斜が増しシラビソ等の針葉樹が多くなると間もなくして狭い痩せ尾根の鞍部に出た。
 四郎峠1820mである。登山口から1時間20分はいいペースだ。
 針葉樹の隙間から燧ヶ岳が間近に望まれ往時を偲ばせる朽ち果てた道標が倒れていた。
 「大清水を経て尾瀬に至る」と書いてあったらしいが、今では全く読む事はできない。
 まずは腹ごしらえをして燕巣山を目指した。
 大きく生育したシラビソ等の針葉樹林帯はうす暗く眺望もきかないのでなんか鬱陶しい。
 この圧迫感が人気を呼ばない理由なのかもしれない。
 それでも時々樹林の切れ間から白根山のドームや背後に四郎岳を望むことができて、息をつぐ。
 尾根筋には東電の標石が一定間隔で埋設されていて、迷う心配はないのだが、かなりの急登だ。
 それもそのはず一気に高低差400mの直登となるのだから、それは半端じゃあないのだ。
 この急勾配は登りも大変だが下りはもっと大変だろう。
 息を切らし峠から1時間10分程で燕巣山の頂上に立った。
 北側は針葉樹に阻まれあまり眺望がきかないが、樹林を隔てて燧ヶ岳、笹藪の先からは鬼怒沼が見えたのは嬉しかった。
 眺望がきかず心満たされなかったという小暮理太郎の頃から約90年、伐採からまったく無傷というわけにはいかなかったということなのか。
 特に南側は開けており真正面にひときわ高く白根山の岩峰がすっくと屹立している。
 その先には錫ガ岳から宿堂坊山への県界尾根が続き、早くお出でなさいと誘っている。
 ひとしきり眺望を楽しんでいると、半袖、半ズボン、トレイルランナーのような単独行者が登ってきた。
 先に四郎岳に登りこれから笹藪漕いで湯沢峠へ向かうと言う。元気なものだ。
 その馬力には感心したが、こちらは温和しく四郎峠まで引き返し、予定通りに四郎岳へ向かう。
 ここの登りもまた凄い急登で顎を出してしまったが、峠から丁度1時間で頂上に出た。
 こちらは燕巣山以上に黒木が伸びやかに真っ直ぐ天に向かって聳え立ち北側はまったく展望がきかないのは頂けなかったが、南側が1カ所大きく開けており威風堂々デンと構える白根山の脚下に丸沼が青く光って横たわっていた。

丸沼より燕巣山

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3.荷鞍山 2024m    尾瀬の隠された登山口        2009年10月30日
 あまり人に荒らされたくないので、入口を隠している山があると聞いては、そりゃあ行ってみにゃあなんめえ。
 尾瀬と言ったらまずは燧、至仏が両雄、他にも景鶴、笠、皿伏等あるにはあるが、まあ行く人は断然少ない。
 いわんや荷鞍においておやだ。
 この山についての先人の紀行を探してみたが、寡聞にして見い出せなかった。
 武田久吉は1924年(大正13年)の「尾瀬再探記」に「鎌田から戸倉に向かうと行く手には荷鞍山がものものしく群山を圧して中央にわだかまっている」と記しているが、登山の対象にはしなかった模様だ。
 山名の由来は文字通りで、両端が少し上がり中央が凹んでいる形が荷鞍のように見えるからだという。
 一段と秋の気配が深まる先週に引き続いての国道120号線、鎌田にて金精峠への道に別れ戸倉に向かう。
 戸倉からまっすぐ進めば沼田街道となり尾瀬沼の入口大清水だが、こちらは左手富士見下へ向かう。
 かって鳩待峠ルートが整備される前は大清水と富士見下が尾瀬の入口だった。
 尾瀬ヶ原へ行くなら富士見下、尾瀬沼なら大清水が定番だったが、鳩待峠が整備され、上りなしで尾瀬ヶ原に入れるようになった今、富士見下に往時を偲ぶ面影はない。
 富士見下山荘も撤去され他に車もなくひっそりとしていた。
 通行止めの遮断機を潜り、堆く積った落ち葉を踏んで幅広い林道を歩き出す。
 紅葉を終えた木々はすっかり葉を落とし、梢の間から木洩れ日がこもれてくる小春日和。
 12曲りと呼ばれるジグザグの道で一汗かくと、明るく平坦な田代原に出た。
 山毛欅や水楢等の巨木が林立し武蔵野の雑木林のように開けた所で思わず鼻歌も出てくる。
 森林美に酔いルンルン気分で登っていくと次第に展望も開け、やがて右手前方にパラポラアンテナが見え出した。
 車も通れる林道歩きは単調だが、先週の四郎峠とは異なり、明るく開けた広葉樹林帯は開放感があり、眺望も得られるので退屈する事はない。
 気分もノンビリしてくる。これぞ秋の1人旅というもの。
 テレテレ歩いているとやがてシラビソ等の針葉樹が多くなり右手には荷鞍山の二つコブ、左手にアヤメ平のなだらかなカヤトの尾根が見え出すと、間もなくして富士見小屋に着いた。
 所要タイム1時間50分はまあまあのペースだろう。
 営業を終了した小屋は戸締まり済んで完全に冬支度になっていた。
 チップ制トイレもしっかり板が打ち付けられ、勿論人の気配もない。
 2003年7月の都岳連自然保護委員講習会で泊まって以来だから久しぶりの富士見小屋だが、これから半年深い雪に埋もれてしまうことになる。
 季節を急ぎ冬目前の尾瀬。なんとなく寂しい気持ちになる。
 小屋の先にある富士見峠で左手に尾瀬ヶ原の下田代十字路への道を見送り、右手に行くのが白尾山、皿伏山を経て尾瀬沼に抜ける登山道で、車の通れる林道はゆるい登りがマイクロウェーブまで続いていた。
 このマイクロウェーブは日本初のソーラーパラポナアンテナという事で、電源開発(株)富士見中継局の看板がかかっていた。
 背後には通り過ぎてきた富士見小屋の先に至仏山、小さな湿原の先には燧ヶ岳と展望も申し分ない。
 パラポナアンテナから先は登山道となり、黄金色の草もみじの中いかにも尾瀬らしく木道も出てきて燧ヶ岳をバックに思わずカメラを構えたくなる。
 花の時期の再訪を誓った。
 白尾山への途中右手に荷鞍山が近づいてきたので、この辺だろうと検討つけて茂った笹の中に突入した。
 成る程うまく隠したもので、ホンの数bヤブ漕ぎするだけで、その先はしっかり刈り払われた登山道となっていた。
 あまり宣伝してくれるなという話らしいので、詳しく書かない事にするが、よく注意して行けば分かるハズだ。
 一度80m程鞍部まで下り今度はシラビソやコメツガの原生林の中を100m程直登するが、片道40分程で道は明瞭だ。
 狭い荷鞍山の頂上は足場も悪く、人1人ようやく立てる位だが、崖になっている南側は日光方面の展望が開けていて、先週登ってきた燕巣山と四郎岳が指呼の間に望まれた。今頃塚本稔さん達が取り付いている頃だ。
 聞こえるわけもないが、「オーイ」と叫んでみる。
 四郎岳の背後には白根山が抜きんでて周囲を睥睨し、男体山、女峰山も顔を出し、武尊山、笠ヶ岳、至仏山等々黙然と懐かしの諸山を眺め回す。
 まずは満足。
 頂稜で憩いゆっくり弁当を食べた。
 入口が秘密になっていると聞き、ルートファインディングを楽しみに来た荷鞍山だったが、取り付きには赤テープもあり拍子抜けだった。
 まずまずの展望を除いては格別激賞する程の事もなく、別に秘密にしなくてもそう心配する事もないのではないかと思った。
 今度は花の時期とか残雪の時期とかに来てみよう。

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4.大源太山 1764m  浅貝スキー場から新ルートを辿る    2009年10月31日
 上越国境には大源太山が二つある。
 一つは清水峠に近く、もう一つは三国峠に近い。
 ゲンタはこの地方の方言で四角い木材の事であり、双方とも山容が角ばっている所から大源太山と呼ばれている。
 三国峠に近い方は河内沢ノ頭とも呼ばれていて、昭和35年朋文社発行の「東京周辺の山々」にはハッキリと大源太山というのは間違いだと記されているし、大正時代三国峠を越えた小暮理太郎は名著「山の憶い出」の中で三国山から見たこの山を渋沢山と呼んでいる。
 これは群馬側の赤谷川支流の渋沢から由来していると思われるが、山の名前が地元によって混乱し、厄介なものとなっているのはヒマラヤのチョモランマ、サガルマータのエベレストでも明らかであり、見る側によって異なっているのは仕方ないのかもしれない。
 この山には何回か登っているが、浅貝スキー場から国境稜線の三角山まで登山道が整備されたと聞き気になっていたのだ。
 整備したのは慶応大学ワンダーフォーゲル部(以下KWV)で、彼等は50年前にこの地に山荘を建設している。
 まだ三国トンネルが開通する前の事で、1日数本のバスで越後湯沢から来るか、あるいは後閑からバスで法師温泉まで行き、数時間かけて徒歩で三国峠を越えてくるしか便のなかった時代に、よくまあ小屋を建てる気になったものと思う。
 当時の浅貝は23戸35世帯、人口167人のさびれた集落であったという。
 トンネルが開通し国道17号線が全通するのは昭和37年の事になる。
 KWVに遅れる事15年、私が友人達と西武の開発した別荘地を購入し山小屋を建設した頃は、苗場スキー場の隆盛期に当たり、その後急速な発展をみたのは周知の通りだ。
 20年前、私も何とか自分達の小屋から直接国境稜線までのルートを開きたいと思い、小屋の前を流れる北ノイリ沢を詰め藪を漕ぎ三角山まで達したが、深い藪を切り開き道をつけるまでにはいかなかった。
 KWVが整備した道は、昔は歩かれていた道で、手元にある昭和36年発行のガイドマップにはFC新道と記されており、その後廃道になっていたものを復活させたものだが、別ルートながら同じ目的をもって活動していたKWVには敬意を表したい。
 こちらは単独だったが、KWVという組織になるとやはり違う。
 彼等は三国峠から稲包山までの国境稜線の藪も切り開いてくれたので、お陰で清水峠から稲包山まで一気に上越国境稜線縦走が出来るようになったのは称賛すべき活動と言える。
 まずは別荘地内にあった旧ファミリーゲレンデのリフト終点近くから浅貝スキー場へトラバースする。
 芒をかき分け回り込んで出た地点は浅貝ゲレンデの第一リフト終点より少し高い所で、そこに三角山登山道という標識とともに、ハシゴが据えつけてありトラロープがぶら下がっていた。
 一気に尾根に取り付く。
 ミズナラ等広葉樹林の中、急な尾根をしばらく行くと左手間近に第三リフト終点が見えてKWVのケルンが設置されていた。
 仲間の慰霊碑らしい。
 雪のシーズンには何十回となく利用してきたリフトだが、その先がこんな風になっていたとは知らなかった。新鮮な発見だった。
 登山口から40分程で落葉松の生える毛無山1370mの頂上に出た。
 振り返ると昨年藪を漕いだ向山がデンと腰を据えており、この角度から見るとなかなか堂々たるものだ。
 その先には稲包山が遠慮深く顔を出し、正面には笹原に覆われた平標山が間近に迫り、その奥に仙ノ倉山も頭を出して存在感をアピールしている。
 送電線の鉄塔から一旦わずかに下ると道は広くなり、さらに歩きやすくなった。
 車も通れる位の道で、こんなにも広いのは意外だった。
 盛りを過ぎた落葉松の紅葉の中ゆるい登りが続き、毛無山から1時間程で国境稜線に出た。
 途中、以前自分が開拓した北ノイリ沢からの道を気をつけて探したが、まったく分からなかった。
 あの頃は熊や羚羊でさえ通るのを憚るような深い藪だった所に、こんないい道が開けてしまったのには改めて驚いてしまった。
 飛び出した所が三角山1685mの頂上で、立派な道標が立っていた。
 20年前は藪の手前に「三角」と書いた小さな板きれが置いてあるだけだったのだからすごい様変わりだ。
 目の前にはどっしりした大源太山が迫りその先にさえぎるものなく関東平野が大きく広がっていた。
 登り詰めると一気に展望が開ける、これがこの山の魅力だろう。
 3月に予定している藤野さんの雪山体験山行はこのコースを推薦する事にしよう。
 途中雪崩の心配もないし時間的にも丁度良さそうだ。
 ラッセルでたっぷり汗をかき、登り詰めた稜線で肌に心地よい涼風感じながらこの展望を得られるなら皆満足してくれるに違いない。
 大源太山へは三角山から稜線漫歩すること20分。
 土曜日のせいもあり先客が3名寛いでいた。
 平標山、仙ノ倉山が目の前にどっしりと大きく、右手の小出俣山が懐かしい。
 いつか行きたいと思いつつ行きそびれている平標に突き上げる笹穴沢の源流部が嫌でも目に入る。
 封印中の沢登りだが、来年は禁を解かねばならないかと思ったりする。
 万太郎山から遠く谷川岳の二つ耳、目を転じれば三国山から稲包山、はるかに遠く浅間山といつまでも見飽きぬ旧知の山々に心を残し山を後にしたのだった。

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