◆「聖職の碑」コースから木曽駒ヶ岳へ

日程: 2012年5月12日(土)~13日(日)
メンバー: 愛知組=矢澤(CL)、金田
東京組=藤野(SL)、石川
報告: 矢澤

 

 

 未明、避難小屋の中は真っ暗だったが窓は明るく輝いていた。月明かりだろう、晴れているに違いないと思った。シュラフの中でヘッドランプを点け腕時計を照らすと、2時半過ぎ、携帯電話にセットしたアラームは2時45分に鳴るはずだが起きることにした。シュラフとシュラフカバーから身体を出そうとしてゴソゴソと動いていると、
「もう時間ですか。」と暗闇から藤野さんの声がした。
「ええ、2時半過ぎです。」と答えた。身体を出し終えシュラフ等を片付けていると、ズボンのポケットに入れておいた携帯電話のアラームが鳴った。その時には既に他のメンバーも起きていた。
 入山前からの天気予報と、そして昨日の夕方からの天気の回復具合から『明日は晴れるだろう。』と、当然のように思っていて、
「2時半過ぎには起きて4時には出発しましょう。」と、昨夜提案してあった。予定通りの起床となった。この小屋から稜線に出るまでは急登が続いている。2時間位か。稜線に出てからでも山頂までは距離がある。3時間半はかかるだろう。天気が良いと午後の気温の上昇が気になる。山頂に着いた後は、馬ノ背の急な雪面を早い時刻に下っていたかった。
 暗い中、各自ヘッドランプを点け、朝食、片付け、準備を進めていった。小屋の片隅に荷物を寄せ、サブザックを背負い小屋を後にした時は、結局4時15分になっていた。樹林の中は暗く、歩くのにヘッドランプを必要としたが、東の空は既に色が変わり始めていた。また半分になった月が天空に煌々と輝いていた。所々雪に覆われた登山道を上へ上へと進んだ。やがて雪が登山道の全面を覆うようになり、早朝で雪が固かったのでアイゼンを装着した。アイゼンが固い雪を削る音のみがあった。ザクッ ザクッ ガシッ ガシッ・・・
 東の空がいよいよ明るくなり黄色やオレンジ色、赤色に染まりつつあった。日の出はまだだろうと思っていたが、そのうちに本日最初の陽光が自分たちに届いた。4時45分だった。もうヘッドランプは必要なかった。登行を続け「津島神社」に着いた。標識は雪に埋もれていたが、大きな岩が「津島神社」を示していた。その横の急登を乗越し休憩した。空は明るくなり快晴だった。目指す稜線が大きく迫っていた。樹間からは右手側に槍や穂高が望めた。また左手側には南アルプスの峰々が拡がっていた。北アルプスと南アルプスが正反対側にあった。ここはまさに「中央」アルプスなのだ。
 樹林帯を抜け出て、数mの緩い雪面を登りきると稜線に出た。「胸突の頭」である。展望のない樹林帯を抜け、この稜線に立った瞬間に目に飛び込んでくる雄大な山岳パノラマが拡がっていた。
 「胸突の頭」から道は分かれる。夏道は山腹をトラバースし直接西駒山荘に延びている。もう一つは冬山用として雪崩を避けるためであろう、稜線を忠実に辿って「将棋頭山」に延びている。この時期夏道は雪に埋まっている。どっちに進もうかと迷った。雪の下に埋まっている夏道はほぼ水平で、それを忠実に辿るとなると急な雪の斜面のトラバースとなる。あるいは稜線近くまで残っている雪の上を登行するかである。トラバースは避けたかった。また稜線に近いルートは、ここからではすべてが見渡せず雪の状態が不明である。結局ここは稜線沿いの冬山道を選んだ。その道はもはや雪はほとんど着いていないだろうと判断し、アイゼンを外すことにした。二つ三つのアップダウンを越え「将棋頭山」に着いた。展望がさらに拡がりこれから登行する「馬ノ背」への稜線が見え、その先に主峰駒ヶ岳が残雪に覆われ白く堂々と聳えていた。
 「将棋頭山」で再びアイゼンを着け先に進んだ。ここからは尾根が広く緩い下りがしばらく続いた。自分たちは雪原にルートをとった。天気がよく雪からの反射が眩しい。見覚えのある大きな岩が現れ一旦夏道に入った。岩には「遭難記念碑」と彫られている。これが「聖職の碑」である。この碑を建てる際、大量遭難したのに「記念」とはどういうことかと反対意見もあったという。時の教育委員会が、学校教育の一環での登山で、今後こうした悲しい遭難を出してはならない。そのための記念の碑なのだと答えたとのこと。それにしてもここからの眺望は『みごと』の一言に尽きる。大正の時代に風雨に打たれて亡くなった生徒たちが、今ではこの地で安息に時を過ごしているのではないかと思うほどの絶景、天気が良ければ穏やかな所である。鎮魂の地である。
 再び進み「馬ノ背」にさしかかった。傾斜の急な広い雪面を上ると、ナイフリッジとまではいかないが右側が切れ落ちた尾根に出た。そこを慎重に越すと、ガレ場と雪の混じった急な尾根となった。山頂まではまだ長かった。今更ながら木曽駒ヶ岳の大きさを感じた。緊張した尾根を過ぎると、あとはなだらかな雪原が山頂まで続いていた。避難小屋を出発してからまもなく5時間になろうとしていた。なだらかな雪原をゆっくり、ゆっくりと自分のペースで足を運んだ。9時15分、2,956mの山頂に着いた。皆で握手を交わした。
 木曾駒ヶ岳はいわずとも知れた山岳宗教の山である。ただこの山頂には神社が二つある。伊那と木曾の神社である。今回辿ったコースは伊那側からだった。伊那側からはこの「聖職の碑」コースの他に、「将棋頭山」で合流する「権現づるね」コース、そして駒ヶ岳ロープウェイの近くを辿るコース等がある。木曾側からは上松コース、福島コースが古くからある。いずれのコースも長く険しい道程である。ロープウェイを使わずに登ると厳しいけれどもこの木曾駒ヶ岳の山の大きさが実感できる。 天気に恵まれ、山頂は360度の展望である。北アルプスが連なり、南アルプスが連なる。その南アルプスの白根三山と塩見岳の間に富士山が頭を覗かせていた。そして眼前には中央アルプスの稜線が南に向かって延びていた。奇怪な岩塊を持つ宝剣岳から延びた稜線の先に空木岳、南駒ヶ岳が聳えていた。そして主稜線から外れた目の前に、形の良い三ノ沢岳があった。残雪を纏った峰々を眺めながら、藤野さんが、
「あの深田さんが、空木岳と南駒ヶ岳のどちらかを百名山にしようかという時に、空木の方が名前が良かったということで空木岳が百名山に選ばれたらしいよ。」と話してくれた。
 天気が穏やかで風もなく、いつまでもここにいたい気持ちを切り換え下山にかかった。急な「馬ノ背」はアイゼンを効かせながら慎重に下った。やがて平坦な尾根に着き、雪面からの照り返しを浴びながら進んだ。そして再び「聖職の碑」に寄り休憩をとった。この絶景の地、鎮魂の地で一人ひとりが「岳」のポーズをした。石川さんの「岳」、現役である。金田さんの「岳」、昔の山ガール?いやいや今でもまだまだガールだ。藤野さんの「岳」と私の「岳」、これらは30年後の岳か?ガクン!
 「将棋頭山」からは稜線沿いの雪の上をアイゼンを効かせながら下った。「胸突の頭」で白い稜線は見納めである。そこから樹林帯に入りどんどんと下った。途中でアイゼンを外し避難小屋に着いた。13時だった。下りは3時間30分だった。
 小屋で昼食を摂り、荷物をパッキングし桂木場まで下りた。
 近くの「みはらしの湯」で汗を流し、解散となった。

<記録>
12日(土) 9:00 桂木場にて合流。 9:35 桂木場‐ぶどうの泉(水場)‐野田場(水場)
     ‐13:00 大樽避小屋(泊)。
13日(日) 2:40 起床 朝食・片付け・準備。 4:15 避難小屋‐6:10 胸突の頭‐将棋頭山
     ‐聖職の碑‐馬ノ背‐9:15 駒ケ岳山頂~9:35 山頂‐聖職の碑‐将棋頭山
     ‐胸突の頭‐13:00 避難小屋・昼食・片付け・パッキング。
     14:15 避難小屋‐野田場‐ぶどうの泉‐16:00 桂木場。

 

 
木曾駒ヶ岳の山頂での集合写真です。
左後方は「御嶽山」です。
右奥が木曾駒ヶ岳です。手前の尾根を詰めて行きます。
左の鋭いピークが宝剣岳、中央のきれいな三角形は中岳です。
 
木曾駒山頂まであと数十mのところです。
先着者はなし、我々だけの世界です。
「金田さんの岳」です。
「聖職の碑」の前にて。

 


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