はじめに
 誰にもいつか登りたいと思いながら、機会を逸してついつい登りそびれている山というのがあると思う。古希を迎え、我が人生の最終章を強く意識した途端にそうした山の数々が気になりだした。残された時間は限りなく少ない。あと幾つ登れるのだろう。 躰は古いポンコツ車、部品の交換は利かないがせいぜい油をくれて頑張ってみよう。
 
1.南会津・七ヶ岳 1635m   日時:10月20日(月) 同行者:妻
 9月30日、会山行にて大嵐山に登った時に目に焼き付いたのは、頂上近くまで切り開かれた無惨な七ヶ岳だった。あれは七ヶ岳の山腹斜面の原生林を広範囲にわたり伐採した会津高原たかつえスキー場で自然破壊極まわりという所で、札幌オリンピックの滑降コース恵庭岳を思い起こしたものだ。しかしこれこそ会津の悲願、戊辰戦争以来虐げられてきた会津が漸く首都圏と直結出来た野岩鉄道(開通1986年)の副産物、地元の期待背負った事業であると思えば、会津ファンとしては目くじら立てるわけにもいかない。
 登山口は4個所あり私が敬愛する川崎精雄氏が昭和16年に辿ったのは旧中山峠からであったが、今は余り利用されず、多くのガイドブックが勧めるのは羽塩集落からのコースなので我々もそれに従う。国道からほぼ舗装された走り易い林道を4㌔程走ると登山口に出た。栗の実が落ちる闊葉樹林から明るい白樺林へと抜ける歩き始めは天気もまずまずで気分は上々、口笛が出る位だった。間もなくして沢音が聞こえてきて程窪沢を渡るとナメ沢に出た。これが平滑沢で<七ヶ岳登山コース>の標識が括り付けられた木には荒縄が何本か垂れ下がっていた。この時は何のおまじないか分からず首を捻ったものだが、直ぐに<成る程、そういう事だったか>と気がついたが、時すでに遅しであった。
 案内書ではせせらぎ程度の水量で快適に歩けるとあるのだが、それがどうしてどうしてツルツル滑ってすぐにへっぴり腰になる。フェルト靴かワラジが欲しい。そこで漸く沢の入口に吊してあった荒縄の意味が理解できたのだった。
 チョッとこれは想定外、まあ滑ったところで傾斜も緩いし死ぬような事はないだろうが、打ち所が悪ければどうなるか分からず、距離にすればわずか数百㍍位なのだが、おっかなビックリ、かなりの緊張を強いられた。なんとか源頭部に達し、左手のブナ林の中の登山道に出たが、これが又石や木の根につかまりながらの急登、さすが会津の山と嘆息したのだった。登山口から丁度3時間で頂上に達した。本来なればさえぎるものない360度の眺望が楽しめるとの事であったが、天気は生憎下り坂、小雨がポツポツ降り出してきて慌てて引き返す。大雨になって水量増えたら大事だ。幸いに大した雨にはならなかったが、ナメ沢の下りは上り以上に大変で、私が一度、妻は二度転けて、したたかに尾てい骨を打って悲鳴をあげたものだ。70年以上も前に猛烈な藪と格闘しながら単独登攀した川崎氏には改めて脱帽。旧中山峠から往復10時間かかったという。今日は単独行の男性と我々と同じ位の年配一組と出会った。その夜は荒海川と鎌越沢が滝となって合流する絶景が印象深い滝ノ原温泉・三滝旅館に宿泊。
<コースタイム>羽根塩登山口10:15 ~ 13:20七ヶ岳13:35 ~ 15:20羽根塩登山口
 
2.奥深い山・荒海山 1581m    日時:10月21日(火) 同行者:妻
 鄙びた宿のご主人は「荒海山は台風の影響で大分荒れており、最近はあまり人が入ってないし七ヶ岳よりアップダウンありキツイですよ。気をつけて」とこちらの顔を見て心配顔である。まあ心配されても仕方ないのだが、7年前に小室パーテイが入山し、途中で後上さんと出会ったエピソードも聞いていたので「ハイ、有難う御座います。気をつけます」と迷わず車を出す。彼等が登れたのだもの、こちらだってという気持。
 昭和20年代には2300人以上が生活していたという八総鉱山跡に駐車。川崎精雄氏が昭和15年に入山した時は廃鉱だったというから、敗戦と同時に日本中混乱の極み、物資に不足し何が何でも資源開発と一旦は放棄した鉱山にも手が加えられたものと思う。周囲は赤、青、黄とりどりに染まった紅葉、一番いい時に来たようだ。
 身支度整え8:30出発。間もなくして荒れた林道が切れ、小沢添いに高度を上げていくと、右手に長いロープが垂れ下がる急斜面が出てきた。ここが尾根に上がる取り付き点だ。登山道が開かれてなかった頃の川崎氏は小沢を直登し、藪に阻まれ難儀したという。70年余も前というからまさに人跡未踏、ようやるなあと先人の根性に頭が下がる。
 登山口から1時間で尾根の鞍部に達し一呼吸する。その先の尾根道はブナやナラ林の中、緩やかなアップダウンが続き、大木の黒檜帯(アスナロ)を過ぎると、頂上が間近になりロープの垂れ下がる急登となった。石楠花の中を登り詰めると、やがて南稜小屋が見えてきて、その先が待望の荒海山山頂だったが、真に残念ながら一面のガスでなーんにも見えず。ガックリである。「大河の一滴ここより生る」と刻んだ阿賀野川水源之標という石碑があった。北側に降った雨は、荒海川から阿賀野川となって日本海に注ぎ、南側の雨は男鹿川、鬼怒川、利根川となって太平洋へと運ばれていくという。まさに分水嶺の頂点というわけだ。それにしても折角頑張ってきたのに、視界ゼロとはついてない。出るのは溜め息ばかりなのでありました。まあ、雨が降らなかっただけヨシとしよう。下山は往路をそのまま安全第一に慎重に戻った。誰にも出会わぬ静かな山だった。
<コースタイム>八総鉱山跡8:30~9:45尾根鞍部9:50~12:00荒海山12:10~14:40鉱山跡
 
3.越後山脈の前衛峰・唐松山 1079m   日時:11月5日(水) 単独
 関越道を新潟へ向かってハンドルを握っていると、六日町ICを過ぎると前方に三つ、なだらかなピークが見えて来る。左から下権現堂山、上権現堂山、唐松山で、標高は高々1000m前後にしか過ぎないが結構目立つ。日本海からの季節風をまともに受ける日本有数の豪雪地帯にある為、標高の割りにはなかなか恰好良く、ずっと気になっていた山だ。
 昨年下権現堂山には登ったので、今回は三山中一番高い唐松山をめざし、朝6時過ぎに自宅を出発。10時丁度中子沢・手ノ又登山口に着いた。天気は良く、関越道からは権現堂三山の向こうに真っ白な山の頭が見えた。守門岳に違いない。登山口からすぐにブナ林の急坂となり滑り易い粘土で歩き難い。じきに展望が開けると、これから登る主稜線や駒ヶ岳、八海山が見渡せるようになったが、生憎の逆光でもやっている。30分程で滝見台到着。不動の滝を見ながら早めの昼食を摂る。紅葉はもう盛りを過ぎたようで、鮮やかさを失っている。滑り易い急坂で一汗かき稜線に出た。上権現堂山との分岐だ。
 主稜線からの展望は良く、真っ白な越後駒ヶ岳、八海山、守門岳、淺草岳と旧知の山が懐かしく、明日狙っている荒沢岳、いつか登りたい未丈ヶ岳、毛猛山塊・檜岳等まだ雪はまばらだが素晴らしい景観で登攀意欲をそそられる。ガイドブックでは上り2時間45分とあったが、結局それより50分遅れで山頂に着いた。
 たかだか1000mの山、駆け足でやっつけてやれと目論んだが、それはとんでもない思い違い、頂上は遠かった。「山を舐めてはいけません」誰か言ってました。
 マイナーな山と思っていたが、何人かと出会った。天気の良い日には、手頃な山なのだろう。下山後の楽しみにしていた中子沢温泉・羽川莊は昨年末廃業した由。残念。
<コースタイム>登山口10:10~10:40滝見台10:55~13:45唐松山頂上13:55~16:10登山口
 
4.友眠る山・荒沢岳 1969m   日時:11月6日(木) 単独
 いつか行かねばと思いながら、行きそびれていた山、その代表がこの荒沢岳だ。行きそびれていたというよりも2004年8月山友Mさんが前クラで滑落死し、その二の舞になるのを恐れるあまり敬遠していたと云った方がいいのかも知れない。Mは自他共に認める辻まことファン、毎年欠かさず愛車を駆って福島の辻まことのお墓参りに出掛ける程で、8人乗り4WD車の愛車を「オトカム号」と名付けていた事だけでもうかなりの辻狂である事が分かるというもの。まことの享年62にも達せず57才で亡くなってしまったMさん、さぞ無念だったに違いない。
 10月の例会で松山さん、深澤さんより藤野さんと登ってきた荒沢岳の写真を見せてもらいその映像に魅せられ、行くなら今しかないと山行を決意する。
 荒沢岳の無雪期初登頂は川崎精雄氏で昭和6年8月単独で中荒沢をつめ踏み跡さえなかった前クラを経て頂上に達しており戦前から戦後にかけて高い評価を得ていた。清水トンネルは開通していたが、まだ試運転中でトロッコ貨車に便乗させてもらい湯沢に抜けたという。雨でも火が使えるよう火打石を持参したという そんな時代だった。
 昨夜は唐松山から転進し銀山平の登山口で車中泊。朝の気温は4度。いい天気である。  登山口には<登山者の皆様へ・荒沢岳前クラの鎖は外したのでご注意下さい>という看板が立てられ、登山届け提出ポストも外されている。事前に塚本さん、藤野さんから聞いていたので<やっぱりなあ。まあ入山禁止ってわけでもないので行ける所まで行こう>と6時過ぎ出発。歩き始めからいきなりの急登で息あがり体力の衰えをしみじみと感じる始末で、前山まで1時間かかった。ここで漸くこれから登る前クラの岩峰や駒ヶ岳等の展望が開け「ヨシ!!」と気合いが入る。
 前山から前クラまではフカフカの落ち葉の絨毯踏んでの気持ち良い尾根道で、鼻歌が出てくる位だ。アップダウンを繰り返し少しずつ高度をあげていくと鋸歯状の岩壁・潅木に覆われた前クラに行く手を阻まれた。ここまでかと思ったが、鎖もハシゴもついている。てっきり外されてるものと思っていたので拍子抜け。「なーんだ」とさらに前進する。岩峰の基部を左へ巻くようにして何とか長い鎖場5~6ヶ所、ハシゴ3ヶ所無事通過したが、3~4日前に降った雪が薄く残っていて滑る。多分ここが第一の鎖場だろうと思ったが、その先がどうなっているか分からないし、雪も深くなってきそうなのでここで退却とした。Mさんの顔がちらつき「引き返せ」と云っている。
 「Mさん、安らかにお眠りなさい」私は黙祷し前クラを後にしたのだった。
<コースタイム>登山口6:15~7:15前山7:20~8:50前クラ9:10~10:30登山口
 
おわりに
 今年は春に大塚さん、川崎さんという相棒を得て念願の景鶴山に登る事が出来たし、秋には大嵐山にも登ったのでかなり数をこなす事が出来てまずまずだった(会山行報告・大塚忠彦<田代山・大嵐山>)参照。
 残念なのはアルプスのユングフラウ、メンヒでこれはもうノーチャンスだろう。北海道の狩場山、大千軒岳は又機会を作りたい。今度は自転車ではなく車で行く事にする。今回撤退した荒沢岳は来年藤野さんが未丈ヶ岳と合わせて計画してくれるという。まずはこれに賭けたいと思う。

 


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