◆稲佐山(333m) ―私の山歩きの原点―

中道 宏
 
 長崎は山に囲まれて狭く、高いところまで拓かれていて、美しい。その様は帰国した明治新政府米欧視察団を、「遠近の峰峰、ミナ俊抜ナリ、船走レハ…転瞬ノ間ニ種種ノ変化ヲナス、真ニ瓊浦ノ美称ニ負カス、…世界ニテ屈指ノ勝景地ナリ」と感激させている。この峰峰の俊峰が稲佐山(いなさやま)である。
 この狭いところの底にNHK、長崎駅、魚市場、浦上川河口、トロール漁船着場があり、そこから階段・ 坂道、迷路が縫う家並み、中国人の菩提寺、ゴルバチョフ大統領が態々訪ねた国際墓地、神社、段々畑、里山と高度を一気に上げ、333mの頂上に至る。
 稲佐山は古くからいいところであったらしい。司馬遼太郎「韃靼疾風録」の主人公庄助は女真族の王女アビアを娶り、唐人となって帰国し、通詞を「退隠のあとアビアが好む稲佐山のもとでわずかに残された日々をすごした。山径をいったんのぼって二十歩くだったところに小窪がある。岩清水が湧き、まわりは樹林で覆われ、眼下に長崎の海が光っている。」
 「稲佐の山を名に負える・・・」で始まる校歌の稲佐小学校を私たち兄弟姉妹7人は卒業した。明治15年開校で、校歌は外国人が作曲している。
 初めて稲佐山に入ったのは、町内全員が避難する大防空壕を国際墓地の斜面に造るため、その支保工とする杉丸太を稲佐山から伐り出したときである。就学前の児まで動員されたのは、戦時下で人手がなかったためだろうか。当時では珍しく、コンクリート舗装道路が山肌を縫っていた。これは秩父宮が登られたとき造られたと母から聞いたが、眼下の造船所を守る高射砲陣地の軍用道路を兼ねていたのかもしれない。この防空壕は、この入口に落とされた爆弾からも、また原爆からも私たちを守ってくれたうえに、爆弾の跡にできた池は敗戦後餓鬼の船遊びの場となった。
 稲佐山に初めて登ったのは小学校に入学した春の遠足である。まだ高射砲の台座が残っていた。防空壕のために伐られた杉の伐採跡地の植林・育林でも度々登った。稲佐山からは防空壕ばかりでなく、多くの恵みをいただいた。野苺、山苺、椎の実は腹を空かした餓鬼には本当に有り難かった。季節が来ると母から言われヨモギ摘みや柏の葉採りに登った。これはめったに食べられない好物になるのでうれしいことであったが、父と出かける石(つわ)蕗採りはその後何日も同じものを食べることになるので逆であった。
 信心深い母が嫌うので生きものを捕ってこなかったが、女郎クモ(兵隊テンコブという)だけは段々畑や里山から捕って帰り、庭に巣を張らせ、餌をやり、喧嘩を教え、友人のそれと戦わせた。山ではチャンバラもよくしたが、楠の実の稔る頃はこれを女竹の銃に入れて撃ち合う鉄砲合戦がこれに替わった。これらの遊びにはいずれも餓鬼大将がおり、良い場所を覚えており、うるさいことは言わずに、よく見守ってくれていたような気がする。もっとも大事な道具である肥後守がすぐ切れなくなり、がっかりさせられたのをよく憶えている。
 長崎は土地がないから、学校は尾根を切り開いて造られている。中学、高校は丘を一つずつ移動しただけなので、学校から裏山に登ると自ずと稲佐山に至る。自然と山を歩くようになった。浅い山なので、迷ってもたいしたことにはならず、藪漕ぎも苦にならなくなったし、かつて山苺を採った秘密の場所を訪ねるのも愉しいことであった。
 山に行かないときは2階の縁側に寝転び、双眼鏡で舐め回した。照葉樹林の山であるので年中緑であるが、春の若葉の湧き上がりは今でも忘れられない美しさである。
 進学で長崎を離れた頃から、世は高度経済成長である。帰省して稲佐山にTV塔が建ち、ロープウエイが架かっているのを目にしたときは、驚き、怒り、そして悲しくなった。当時売り出し中の開高健の「巨人と玩具」のさいごのくだりと同じである。
 それでも帰省するたびに甥や姪を連れて昔歩いた道を好んで歩いた。次第に藪が茂り、自分の子と歩くようになったときには、それを探すのに苦労するようになっていた。さらに、段々畑に住宅が建ち、里山にホテルが聳えるようになり、特命全権大使が絶賛し、庄助が住んだ稲佐山も姿を変えてしまい、私の山歩きの原点も私のなかにしか残っていない。
 それでも稲佐山から見おろす長崎はまだまだ世界のどこよりもすばらしい。

 


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