□「禰宜と過ごした山上の2ケ月」
     〜伯耆大山回顧〜   大塚忠彦 
  


               厳冬の伯耆大山・北壁

 昼間の喧騒が嘘のように引いた夕暮れの山頂に独り佇んで、ピンク色から薄紫色、やがては薄墨色に沈
んで行く中ノ海や美保湾の暮色を飽きもせずに毎日眺めていた。遥か下界の米子の街にポツポツと灯が燈り
始め、やがて灯の海になる頃、寒さにふっと我にかえって頂上の小屋に引き返したものであった。
 ここは伯耆大山の山頂「弥山」1711mである。もう40年以上も前のことになるが、当時学生であった私は
縁があってここの頂上小屋でアルバイトをしていた。というのも、伯耆大山は私の開眼の山で、休みになれば
しょっちゅう大学のヒュッテに泊まり込んで歩き回っていたから、地元遭難救助隊の隊長をされていた人とも
親しくなって、この小屋のアルバイトを紹介されたのである。

 夏の伯耆大山は、殆どの人が日帰りで下山して行くから、頂上の山小屋といっても、泊まる人は殆どいない。
避難小屋程度の狭い土間に僅かな菓子やラムネ、バッジ類や絵葉書、神社の御札などを並べただけの夏期
だけ臨時営業の素朴な小屋であった。食事のサービスも無いから麓の神社の禰宜一人が常駐しているだけ
で、私の役目はその禰宜の三度の食事を作ること、飲料水を一斗缶に汲んで毎日下の谷からボッカすること、
3日に1回くらいの割で下から物資を荷揚げすることくらいであった。忙しい時には売り子もやったが大概は暇
なものであった。夕方までには登山者は下山してしまうので、夜は我々暇人二人だけの天国となる。お神酒で
紅くなった顔をテラテラと輝かせながら齢70を幾つか越えた好々爺の仙人は、孫のような私を相手に神道の
初歩から麓に伝わる艶笑噺のあれこれまで、飽きもせず毎晩話して聞かせてくれたものだった。仙人は登山
口の大山寺集落にある大神山神社という古社の禰宜であった。

 伯耆と出雲の国は神話と伝承が豊かに残っている国である。伯耆に隣接する出雲ノ国をある神様がご覧に
なって曰く「この国は未完の小さい国であるから、足らぬところをあちこちから寄せ集め縫い合わせて大きくしよ
う」と新羅や能登の珠州の余りを引き寄せて島根半島を創られた時に、引き綱を繋ぎ留めた杭が伯耆大山だっ
たそうで、この時の伯耆大山は火神岳と呼ばれたと出雲風土記の国引きの段に書かれている。大神山神社は
そこを守る神社であるから相当の格式がある神社であろうが、年老いた挙げ句に山に追いやられたこの神官は
その世界ではきっと不遇であったのであろうか。下界では説教を垂れるチャンスも無かったのか、山上でたった
一人の聴衆を相手に自分が生涯掛けて会得した八百万の神様の蘊蓄や深い皺が刻まれた人生のあれこれを
毎晩聞かせて倦むことがなかった。

 ほどなく神学講義などはどこかに忘れてしまって、仙人の得意な歌垣などの話にうっとりと沈潜してゆくのが
常であった。私も神様の話はチンプンカンプンであったが、ソノ方面の話は嫌いではなかったし、何よりも仙人が
話し続けている間はお神酒のご相伴に与れるのだから、これほど有り難いことはない。このお神酒も私が1回に
一升瓶3本づつを背負い子に縛りつけて下の神社の神棚からボッカしたものなのだ。そのうち仙人は良い心持ち
になって垢で汚れた神衣の裾をはだけてドッタと横になり高鼾をかくのであった。仙人の身体にこれまた汚れた
毛布をそっと掛けて小屋の外に出てみれば、満天星霜、漆喰の闇の彼方には山陰の海岸線のあちこちに巷の
灯も煌めいていて、何ともいえない幻想的な光景が広がっていた。

 神学の講義は右耳から左耳へ抜けてしまったが、禰宜がうっとりと悦に入って話してくれた身の上話は今でも
その話振りとともに彷彿としてくる。仙人は神職になる前は、米子のバス会社の運転手であったそうな。当時の
バスはボンネット型の旧式な乗合バスで、運転手と車掌のツーマン方式であった。車掌は大概は男性であった
が、そのバス会社は若い女性を新規に2名採用した。俗に言うバスガールであろう。制服もモンペが一般的であ
った当時としては超ハイカラなスカートを採用し、人気を博したという。仙人も最初の内は面食らってロクに会話も
できないでいたが、何回か乗務を一緒にするようになって、そのうちの一人を憎からず思うようになったのは若い
男性の自然な流れであった。

 ある時、大山寺方面への乗務が一緒になった。当時は米子と大山寺を結ぶバスの便は1日に朝夕2便しかな
くて夕方の便の乗務は終点の大山寺集落の外れの空き地にバスを留めて、バスの中で仮寝し、翌朝は米子行
きとして乗務することになっていたらしい。この二人もそのようにした。早朝、朝日が差し込み仙人が目をこすりこ
すりバックシートに目をやると、寝込んでいる若き乙女の脛の奥に何やら白いモノがチラッと眩しく目に入ったで
はないか。仙人はマジメでうぶな性格であったから、今までじっと我慢して耐え忍んできたものが、ここに至って
一挙に爆発し、久米の仙人となってしまった。仙人が遠くを見るような或いは虚ろな目付きでうっとりと語ったと
ころでは、彼女も拒否行動には出なかったので或いは待っていたのかも知れないと半ば照れながら嬉しそうに、
それでいてどこか淋しそうな表情で語り、汚れた茶碗に残っていた冷や酒をグッと煽ったものだった。ここまでは
良かったが、次がいけなかった。山の集落の朝は早い。早朝から米子に出掛ける人が定刻の1時間も前にバス
に乗り込んで来たらしい。その後どうなったか。ここから仙人の口調が苦渋に満ちたものに変った。

 二人の異変を見て驚いた乗客は、おっかなびっくり家から毛布を持ってきて、重なって離れない二人に掛け、
リヤカーに二人を載せて麓の医者に運び込んだ。俗に言うVaginismusであった。田舎の噂はすぐに広がるから、
この二人は町に居れなくなり、仙人は山奥の神社の作男に雇ってもらい、禰宜への道に進む事になった。女の
方は?と尋ねたら、益々苦渋の顔付きになって茶碗の冷や酒をあおるばかりであった。この仙人はマジメな顔を
して物語をし、最後にカッカと笑い飛ばして、人をおちょくる癖があったから、或いはこの身の上話も麓で語られ
ていた艶笑噺の主人公に自分を仕立てて、ストーリーテラーを楽しんでいたのかも知れない。
仙人はとうの昔に鬼籍に入っているから、その真偽を確かめる術もないが、今頃はあちらの世界でまた大法螺
を吹いて聞かせて楽しんでいるのであろうか。合掌。

 伯耆大山は海岸に迫った独立峰で直接日本海から吹き寄せる風に曝されているので、標高が低い割には気
象条件も厳しく、その北壁には岩壁が屹立し、また東壁や南壁もガラガラに崩れた泥壁で夏には地獄の様相を
呈しているが、冬期の稜線には小型ながらヒマラヤ襞も見られ優雅な雪化粧のピラミッドとなる。伯耆富士と言
われる由縁である。またブナの原生林や頂上近くに群生する特別天然記念物のダイセンキャラボクが一斉に萌
え出す時には、新緑が残雪に映えて見事である。授業をサボッて大山寺集落にある大学のヒュッテに沈殿し、
冬期や残雪期には、夏期には泥壁で登れない東壁や南壁の襞沢を雪崩や落石の恐怖に怯えながら何回も上
下したものだった。
  ある年の冬には、切り立った主稜線で猛烈な暴風雪に遭遇、自分の記した足跡も瞬く間に吹き消され天も地
も全く識別できないホワイトアウトとなって、いちいち足元に雪があるかどうかをピッケルで確認しながら匍匐前
進で進むことを強いられ、そのうち闇夜が訪れて万事窮す、やっとのことで支尾根(槍尾根)に辿り着いた。
通常ならこの支尾根の痩せた岩稜帯を下るのであるが、暗闇の中でミックス帯を下ることには全く自信が持てず、
とにもかくにも一刻も早く高度を下げたい一心で、足は頭の中の選択ルートとは裏腹に、雪崩の巣であるから絶
対に入ってはいけないと言われていた南壁の或る沢に踏み込んでしまっていた。足元から小さな雪崩が始終雪
崩続けたが、何とか安全地帯まで辿り着けたのは全く偶然の僥倖でしかなかったように思う。40年以上経った
現在でも時々夢に見るから相当に怖かったのであろう。ヒュッテに帰り着いた時には真夜中を過ぎていた。

 就職して関東に住むようになってからは、地の利も禍して伯耆大山は遠い存在になってしまっていたが、リタイ
アして時間ができたので数年前の年末に当時一緒に登った相棒と二人で30数年振りに頂上の小屋に登ってみ
た。相変わらずの避難小屋ではあったが、瀟洒な建物に改築されていて、内部も明るくて広くなり、風力発電や
太陽電池によるトイレ処理もなされていた。往時の昼でも真っ暗な掘っ建て小屋とは雲泥の差であった。地元の
ボランティアの方々が清掃や入り口の除雪に精をだされていて、綺麗に保たれている。 この時は悪天候で縦走
は諦め小屋に仮寝して往時の夢を結んだ。翌年の3月再び訪れて縦走路に入ったが、伯耆大山の縦走路は激
しい崩壊が進んでいて当時のルートの記憶が想いだせないほどであった。私の記憶も風化し始めているのであ
ろう。
 頂上付近や縦走路の植生は、夏の集団登山などのオーバーユース、日本海から吹きつける酸性霧、数年前
の鳥取地震による崩壊などで相当疲弊してしまったそうであるが、近年の登山道の制限、木道の設置、崩れた
石を上に持ち上げる一石運動、頂上付近の植生を再生させる一草運動など地道な努力で甦りつつあると聞く。
西日本随一といわれる山麓のブナ原生林、特別天然記念物のダイセンキャラボクの純林など伯耆大山の貴重
な自然と佇まいがいつまでも持続することを願わずにはおられない。           (2004年10月記)


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