◆ほろ苦き青春・尾瀬  

赤澤東洋

 夏が来れば思い出す、ほろ苦きおバカな青春。国会周辺では連日のようにデモが繰り返され、日本国内が騒然としていた昭和35年、私は埼玉県東部のとある田舎の高校3年生。旧制中学のバンカラ体質がそのまま残る男子校は居心地よく、受験も安保も遠い別世界のお話と遅刻、早退常習犯、ぐうたら、ぐうたらと気ままで怠惰な学生生活を満喫していた。
 6月10日(金)大宮22時19分発臨時列車「尾瀬号」に乗ったのはいつもの仲間4名。当然明日土曜日の授業は無断欠席、サボる算段。4人纏まってのズル休みは目立つしバレたらヤバいのだが、尾瀬の はその懸念を忘れさせる程魅力あるものだった。4年前のマナスル初登頂の快挙がもたらした登山ブームと、水芭蕉真っ盛りの尾瀬とあり、上野発の臨時列車は超満員で沼田まで2時間半ずっと立ちっ放し、それくらい人気があった。
 沼田駅前もごったがえしていたが、次々に臨時バスが出て座れたものの大清水までの2時間半の沼田街道は未舗装でガタガタ道、揺れに揺れとても眠れないのだった。
 4時大清水に着きガヤガヤと歩き出す。殆ど一睡もしていないがそこは若さで元気いっぱい、尾瀬沼では燧ヶ岳をバックに咲き乱れる水芭蕉の群落に歓声をあげた4人だった。
 長蔵小屋を出て沼尻に向かったが、途中で真新しい<右燧新道>の道標があり「近道らしいね」とそちらに向かったのが間違いの元だった。?やオオシラビソの繁る原始林の急登に喉が渇いて水担当のSに水筒を出してもらうと、入っているのは琥珀色の液体だった。
 「おい、おい、こりゃウイスキーじゃあないの?水は無いのかよ?」思わず声を荒げる私。「水なんていらないよ。水の飲みすぎは疲労の元、これ飲めばシャキッとするから」とS。理屈っぽくて仲間では唯一理科系志望の彼は、本当にそう信じているらしい。今と違って運動中の水は禁止されていた時代の話だ。もう一人の水担当Kに「そっちはどうなの?」と水筒を要求すると、親父が軍隊で使っていたという丸いアルミの水筒を振ってみせ「空だよ」という。「尾瀬へ行った事のあるYに聞いたら、尾瀬は湿地帯で至る所水だらけだからどこでも汲める」と言われたからカラのままだという。「エッ!!」こちらはただ絶句するばかり。Kは私と同じバスケット部に属し、彼がキャプテンだからこちらはまああまり逆らえず「ウム」とうなずき諦めるしかない。確かに当初の計画通りに尾瀬沼の北岸に沿って歩けば沢もあるし、水に不自由する事もなかったのだが。
人任せはこれだから危ないが、こっちだって山岳部から借りた重いテント担いでいるのだから水位しっかり担いでもらいたいとブツブツ。 ドジめ!!
粋がってウイスキーをごくっと一口飲んだSはというと、さらに喉がひりついたか「こりゃダメだ」とのたまう。さもありなんだ。それなら雪でも齧るかと周囲を探すが三平峠の北斜面には残っていた残雪も、平野長英さんが前年切り開いたばかりのこの燧新道は南斜面のせいか、雪は跡形も無い。ついに喉の渇きに4人全員悲鳴をあげる有様となったのだった。一番バテ気味のMは「水くれー、水くれー」と喚く。Mとは1年からずっと同じクラスで、昨年は奥白根山や磐梯山にも一緒に登った一番の親友だ。「いやー、参ったなあ。もう」。 出るのは溜息と愚痴ばかりなり。
 とにかく行くしかないと喘ぎ喘ぎの登りが3時間半、ミノブチ岳の頂上直下で残雪見つけた時の嬉しさよ。薄汚れた雪片で渇きを癒したものの、寝不足もありすっかり草臥れ果てて、目の前に迫る燧ヶ岳の頂上は断念、ナデックボの雪渓を歓声あげてシリセードで沼尻へと滑り降りた。原の十字路へ出てテントを張ったが、キャンプファイヤーでワイワイ騒ぐつもりがSのウイスキーを回し飲みして早々と寝てしまったものだ。
 翌日は三条の滝を見学し竜宮小屋を経て、富士見下へ抜けたが、帰りのバスの中でUさんという可愛い女性グループと隣り合わせた。電車も一緒になりトランプをしたり、山の歌を歌ったりと、女性とはあまりエンのない男子校育ちには、それがなによりも新鮮で楽しかった。MもUさんが気にいり、帰宅後二人で競って手紙を書いたりしたものだが、二人とも返事はもらえず、しばらくは「どうしてかなあ?」と未練たらたら逃がした魚は大きいのだった。記念に買ってきた菅笠を進呈したりしたMは特に悔しがっていたが、振られて当然、俺たちゃドン臭い田舎のプレスリー。笑ってやって下さい。トホホな人生。
 三日後ズル休みがバレ、リーダーだった私は担任のS先生に教員室に呼び出され大目玉くらった。「大体日頃から生活態度がなってない。授業中は居眠りばかりだし、遅刻、早退、多すぎる。そもそも精神がたるんでるのだ。人生なめてる。英語なんか赤点ばかりじゃないか。本気で進学する気があるのか」「4人で示し合わせてズル休み、山で遊んできたなんて言語道断、本来なら謹慎処分に相当するetc」と厳しい言葉で言いたい放題。これ程ボロカス言われたらしょうがない。とはいえこれはいつもの事、口だけだから首を縮めて嵐の過ぎるのを待つだけと高を括っていたら、いつもは5分で終わる所を延々と20分近くもやられて、ぐうの音も出ないのだった。まあ今回の非はこちらにあるわけで、神妙に「もうやりませんと謝罪し漸く放免されたものの、<3日間の自宅謹慎も悪くないよなあ、もう1回尾瀬に行けるじゃあないか>と反省の色もないのだった。あれから半世紀、あの頃もう少し真面目に勉強していればなあと思いだすだに悔やまれてならないズボラで怠惰にくれた高校3年間。本気でこちらを心配してくれたS先生を思うと忸怩たる思いだ。
 その日国会突入のデモ隊に警官隊が襲い掛かり樺美智子さんが亡くなった。国を憂うるばかりに命を落とした乙女と軽佻浮薄、出鱈目ばかりでノーテンキ、度し難いおバカな田舎の高校生と、このギャップいかにせん。
 あとがき:A新聞社に勤めたMとは、卒業後も時々飲みに行きカラオケを楽しむ仲だった。
 定年となり、半年後に肺ガンで急逝。享年60歳。Sとは年賀状のやり取りだけだが、4年に1度のクラス会には必ず顔を出してくれる。どういう心境からか今は木彫に凝って仏像を彫っているという。Kの消息は杳として知れない。口の悪いS先生は今年82歳。10年前に片肺除去の大手術をされたがお元気だ。今夏のムスターグアタ遠征に当っては、新聞記事をみて電話をくれ心配してくれた。無事下山の報告をし、消耗して10sも痩せましたと言ったら、栄養つけろとハムの詰合せを贈ってくれた。未だに心配かけてるのだからホントしょうがない奴だ。それにしても恩師とは有り難いものです。


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