アバチャ山登山ノート

上岡一雄

カムチャッカに関して、お二人からお便りをいただきました。会社の先輩総山さん(86歳)からは「カムチャッカ半島は、終戦直後北千島”占守島”でソ連軍と激戦戦死した同期生を慰霊し、併せて足を伸ばしたいと思っていました。」と。また大学の同級生永井さんからは「カムチャッカと言えば、母方の爺さんが、戦前ニチロのサケマス漁船の船頭で、漁場はカムチャッカであったと聞かされています。爺さんは、上岡兄が見られた風景を見ていたに違いありません。」ロシア・カムチャッカには、それぞれの込める思いが・・・・・・・・。
 また昭和37〜38年頃札幌の学生時代、北23条のラーメン屋「阿Q」の親父さんの斎藤さんと挑戦し、途中で挫折したドストエフスキーの「罪と罰」が思い出されます。たまたま最近NHK教育テレビで、東京外語大学の亀山郁夫学長のドフトエフスキー論を視聴する機会があり、再びドフトエフスキーに挑戦することになったことも併せて奇遇であります。ドストエフスキーの「罪と罰」が書かれた1866年は、我が国では明治維新へと繋がる大政奉還が行われ、ロシアにおいては「農奴解放」から5年経過しています。改革の流れとは裏腹に、終末的な気分がロシア社会を支配し始めた時代でもあり、解放された農民は都市に出て、その底辺部に巣くい、いわゆる産業予備軍となりました。飲酒、犯罪、売春が横行し、ペテルブルグの町の相貌は、根本から歪み始めました。
 先生は「ドフトエフスキーの時代がふたたび訪れてきたことを肌で感じている。19世紀のロシアに生きて、それこそ波乱万丈の人生を送ったドストエフスキーについて、ようやくわが身の丈にあわせて何かを言える時代が来た。
 我々の世代は、1970年前後の学生運動の悲しい末路をみとり、永遠に続くかと思われた東西冷戦が、ベルリンの壁に続くソ連の崩壊で幕を閉じるのに立会い、「9.11」とそれに続くとめどない暴力の連鎖をありとあらゆるメディアを介して眼の当たりにしてきた。なぜ、いま、ドフトエフスキーなのか。ドフトエフスキーが、だれよりも愛したのは、この広漠たる世界にあって、罪を犯さざるをえない哀れな人間たちではなかったろうか。彼が究極にたどりついたテーマこそ、人間に人間を殺す権利があるのか、という問いかけだった。「罪と罰」の主人公「ロジオン・ラスコーリニコフ」が向かい合うテーマは、なぜ、人間を殺すことが許されないのか、という反転形での問いかけだ。ドストエフスキーは、この、ロシアの広大な大地を越えた何かを私たちに語りかけようとしている。」と熱く述べられています。ラスコーリニコフとソーニャの二人の最後は、シベリアに留まり一生を終えることになります。従って、未だ見ぬロシア・シベリアの大地に大いに興味をそそられるものを感じました。
 2003年3月旭化成工業鰍フ常勤監査役の藤本栄之助(京都学士山岳会所属、73歳)さんから、平均年齢64歳でカムチャッカ半島最高峰「クリュチェフスカヤ4850m」に挑戦し、無事登頂された「遥かなるクリュチェフスカヤ」という著書をいただき、登山に人生の意味を見つけようとした人達に憧れ、今回企画されたカムチャッカ・アバチャ山トレッキングに、友人の橋本さんと勇躍参加いたしました。
 8月1日 成田空港を3時間以上遅れ、ペトロパブロフスク・カムチャッキーのエリザヴォ空港に向けて離陸、カムチャッカ半島を横断し、9時過ぎに到着したが、まだまだ夕陽の残照が美しい。昭和40年代の北海道地方空港を思わせる貧弱な空港ターミナルで入国手続きにかなり時間をとられましたが、無事荷物を受け取り、バスを待っていると暗闇が迫ってきました。バスは約1時間でパラトゥンカ温泉郷にあるバージニアホテルに到着。深夜の食事となりました。
 就寝前ベッドでペドロパブロフスク・カムチャッキーの由来を案内書により確認。カムチャッカ半島は、イテリメン人、エヴェン人、コリャーク人など先住民族が居住する地であったが、1697年から始まったコサック隊長U.アトラーソフが率いる探検隊がくまなく調査し、正確な地図と記録を残し、その成果によって半島はロシアの領土として世界の列強が承認。その後18世紀にロシアを統一したピョートル大帝が二度にわたりカムチャッカ探検隊を派遣。その探検船「聖使徒ピョートル号」と「聖使徒パーヴェル号」が天然の良港アバチャ湾に入港。この地をペトロパブロフスクと名付けた由。
 第二次世界大戦が始まると、日本帝国海軍がアリューシャン列島の要衝アッツ島とキスカ島を占領したため、この地はアメリカとの交通を完全に遮断され弧絶。長いシベリア鉄道による細々とした補給で持ちこたえ、日本包囲網の北の強固な砦として機能し続けた。戦後は、米露対立の冷戦時代でアメリカに対峙する最前線の秘密基地となり、ベールに覆い隠されていました。
 8月2日 朝、軍用車両を改造したと思われる四駆六輪車でアバチャ高原ベースキャンプに向けて出発。途中青空バザールを見たり、コンビニエンスストアに寄ったりして水、酒、食糧等を仕入。バスは、スプリングダンパーが無いため誠に乗り心地が悪く座席の手すりにしがみつく始末。長い枯れた川床を延々とさかのぼり、13時前ベースキャンプに到着。
 8月3日 8:00 アバチャ山目指して出発。紹介されたガイドは、アルチョム、ワーリャ、アレシア(女性)いずれも夏季のテンポラリーガイドの模様。(ロシアの女性の名前は、すべて必ず「ア音」で終ることも学びました。リザヴェータ、ナスターシア、ソーニア等)。
 左側に高くそびえるカリヤーク山(3,456m)を見ながら、ゆっくりとしたペースで、30〜40分毎に小休止をとり12:45漸く尾根上に出たところで昼食(2,015m)。広々としたシベリアの大地が遥かかなたまで展開。ヨーロッパアルプスのような氷河らしき風景も広がりますが、だだっ広い雪原は、雪と氷と岩からなる無機質な凄惨な閉ざされた世界であります。スイスアルプスも氷河の世界ですが、ここのような凄惨な情景ではありません。雪渓を渡り、ガレ場を乗り切ったところから、砂礫の急登にかかります。
 私は、15:00に標高2,415mの地点で右目に異常な視力低下と中央暗点を自覚し、定まらない遠近感から下山を決意しました。あと小一時間の頑張りと思いましたが、何かあればみんなにも迷惑をかけるので、赤澤リーダーに下山意思を告げました。元気なみんなは、小休止後、頂上目指して出発。

注:帰国後、早速東京医大の八王子医療センターの眼科で精密検査を受けたところ、「加齢黄班変性」と判定されました。
 米国に多い病気のようで原因不明とのこと。放置すると失明に至るそうで早速治療に掛かりました。
 長期間の治療になるようですが、特効薬(ルセンティス)があり安心しています。

挫折した私は情けないと思う一方、幸か不幸か美しい女性ガイドのアレシアさんの案内のもと皆さんと離れて下山。途中休憩時、彼女に英語で話しかけると、「a little bit」と返事が返ってきました。彼女はペトロパブロフスク総合大学の生徒で専攻はエコロジーlogy)だそうで。「すばらしいね、時代の花形の学科で人気があるでしょう」と言うと「そうでもありません」と謙遜して答えるところがカワイイ。
「college?」と聞くと「universityです」と強く反論されました。
 また途中の雪渓の水を飲もうとし「drinkable?」と尋ねたところ、「NO!」と即座に返事が返ってきましたが、スイスアルプスと異なり、バクテリアの生息の心配ないところなのにと不思議な気がしました。恐らく火山の硫黄の関係かと思われます。暫くして疲れてくると「break?」と問いかけてくれるのも助かりました。
 19:00頃、漸くベースキャンプの帰着。ベースキャンプの食堂の若い女性も、すべて驚くような美人ぞろいです。透き通るような白い肌の女性、ほっぺたがほんのり赤い可愛らしい少女、現代風に化粧をした成人女性、みんなそれぞれ美しい。ドストエフスキーが「罪と罰」に描いたラスコーリニコフの心を救済した、心やさしいソーニアの姿を想像していました。みんなには悪いが楽しい4時間でした。
 その後みんなは20:30頃到着。全員揃って遅い夕食。無事全員下山を乾杯。
 8月4日 朝食後パラトゥンカ温泉郷の先日のバージニアホテル目指して六輪車で出発。、パラトゥンカ温泉の温泉プールで汗を流した後、ペトロパブロフスク・カムチャッキー市内へ、バスで買い物に出かけました。途中アバチャホテルの近くのレストランで昼食。ボルシチに代表されるロシアのスープはもちろんですが、デザートで出たブリヌイというロシア人が大好きという柔らかいクレープはけっこう口にあったようです。
 レストランの斜め前の道路に、独ソ戦、ノモンハン戦争等で大活躍したT34型戦車のモニュメントが堂々と鎮座ましましているのが異様な光景でした。次いで市内に二つあるというバザールの一つにより海産物を求め、例によってお土産店定番のマトリョーシカ等を購入しました。バザールの中は、お祭りのように人であふれかえっており、すれ違いに苦労するぐらいです。共産党時代は、こんな個人的な取引の場があったのだろうか。統制経済のもとでこんな楽しい商品選びや、値段の交渉などできなかっただろう。共産政権が倒れたからといって、急に明るくなれるものではないはず。封建主義の農奴の時代、帝政の時代、暗黒の血の粛清の時代、彼等はこの極寒の地で相互に助け合いながら300年間も生き続けてきたのではないでしょうか。民衆とはかくも図太いものであることを、しみじみと知りました。
 世界の東の果て、このカムチャッカ半島にもグローバル化の波は確かに押し寄せています。日本製の中古自動車や重機械、韓国製の電子機器が溢れ、レストランや温泉プールで見かけた退廃した若者たち。前述の藤本さんも、ロシア・マフィアの勢力がこんな最北の僻地まで及んでいると書いておられます。そういえばソーニャも「黄色の鑑札」を付けた娼婦であったことを思い出しました。
 8月5日 早朝ホテルを出発し日本へ。離陸直前飛行機の窓の外を覗きますと、滑走路脇にミサイルを両翼に抱いたミグ戦闘機がズラット勢揃いしていたのにはぞっとしました。
 今回のロシア旅行が40数年ぶりにドストエフスキーの「罪と罰」を思い出させ、ロシアの民と大地を考えさせてくれたことに感謝します。

 


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