◆はじめてのネパール・ヒマラヤ
   Chulu Central(6,584m) アタックとAnnapurna一周 藤野孝人

◎期日 2007.10.11〜11.9.  
◎メンバー 大塚忠彦(隊長)、赤澤東洋 (登攀リーダー)、川崎義文、藤野孝人

 
〔BCから仰ぐチュルー・ウェス(左写真中央)と山頂(右写真)。我々が目指したセントラル峰はウェストの裏に
                                       隠れて見えない

 「ヒューッ!! ヒューッ!!」という風の唸りで目が覚めた。ここはB.C.(ベースキャンプ)からもうひとつ上がった標高5,150m、
大きな岩壁の基部、幅4〜5mの緩斜面を整地して設けられたハイ・キャンプのテントの中。カトマンズを発って2週間目、
10月26日の夜明け前であった。予定では本日は6時に出発して高度順応と下見を兼ねて、5,700mのC1をピストン
することになっていた。「この風では行動 は無理だろう、昨日、アンナプルナ1の上に変な雲が掛かっていたのは、
悪天候の前触れか?」などとシュラフにもぐったまま考えていた。やがて白み始めると徐々に風が弱くなってきた。
 太陽が力強くなった頃「おはようございます」と、いつものようにシェルパがお湯の入った洗面器を、次いで大きな
テルモスとティ・パックを運んできてくれた。「風が強かったので遅れました」とのことであった。しばらくして、二人
ずつ別のテントに寝ていた我々もひとつのテントに集り、朝食をいただいた。
 8時半、予定より大幅に遅れたが、我々はアイゼンを着けて出発した。どこまでいけるかわからないが、ピストン
することにかわりは無い。積雪は膝くらいまでだが、昨日シェルパの3名がフィックスロープを張るためピストンして
いるので、トレースはばっちりである。先頭はシェルパのパサン、我々4名の中間にアシスタントシェルパのチリヌル、
最後尾にアシスタントシェルパのニーマの順でゆっくりと歩を進めた。

 
                   (ロックバンドをフィックスロープで登る)

  最初の岩場の50mほど手前から、昨日シェルパが設置してくれたフィックスロープがはじまった。ここからユマ
ールでの登りとなった。ちょっとした岩場が3箇所あり、登る前はどの程度のグレードか? と案じていたが、阿弥陀
岳の北稜より易しかった。しかしながら5千mを越えていることから、身体が動けば楽勝でも思うように動かなけれ
ばきついと思われた。「4千mを越えると肺が飛び出すかと思うほど苦しい」と記されているのを読んだことがあった
が、私自身は高度順応がうまく行ったことなどから誠に快調で、5千mを越えても日本の残雪期の3千mクラスと同
じような感じで、きつくはなかった。このフィックスロープは5,600m付近で終わった。ここから少しの間、緩斜面とな
り、その先が稜線まで急な斜面が続いていた。この上部にフィックスロープを張るため、シェルパのパサンとチリヌ
ルが新たなフィックスロープを引いて出発した。我々4名はニーマとともに、ここから引き返すことになった。

 しばらくの間、登っていくシェルパを見ていると、時々膝上まで没するのが気になったが、我々はそのまま回れ
右とした。5名が懸垂下降などで下っていくのはなかなか時間がかかる。ほぼ半ばまで降りてきたとき、フィック
スロープを張りに行ったシェルパのパサンとチリヌルが降りてきた。「上部は雪が深く胸まで没する。登れない」と
のことだった。この高度でラッセルはできない。残念だが「撤退する」ことになった。
 チュルー・セントラルに登るには、チュルー・ウエスト (6,419m)の多分6千m付近と思うが、この稜線を越えて、
その北斜面を行かなくてはならない。北斜面は更に雪が深くなるだろう。この南斜面も条件がよい訳ではない。
いつ雪崩が発生しても不思議ではないほど暖かかった。ウールの手袋やオーバー手袋などはザックに入れた
まま、百均の手袋をしていた。これで充分こなせるほど暖かく、とてもヒマラヤの5千mを越えた高所とは思えな
かった。ともかく、我々はチュルー・ウエストの稜線にも到らずに撤退した。 
 その結果、何と!!カトマンズを出発して2週間、目指すチュルー・セントラルの姿を一度も見ることのないままの
撤退となった。我々自身も自ら胸までの深雪に埋まった訳ではない。何だかきつねにだまされたようなチュルー・
セントラルであった。

 10月13日、カトマンズをバスで発ち、ベシサハールのロッジに宿泊。翌14日より多数のポーター達に大量の
荷を担いでもらいながら、シェルパの案内によりマルシャンディコーラ川に沿ったアンナプルナの外側を回るトレ
ッキングコースを歩きはじめ、ロッジ泊を重ねた。ポーターの荷を担ぐ能力は大変なもので、15歳の小柄な少年
でも20Kg以上を背負ってゴム草履でスタスタ行く。成年は50Kg以上担ぐものもいるので驚いた。

 17日、Timang付近に達したとき、赤澤さんがピーク 29(7,871m)、次いでマナスル(8,163m)を山座同定した。
赤澤さんは資料持参で同定するのが早い。マナスルはこの日宿泊したロッジの前からもよく見えた。1956年
「日本山岳会・マナスル第三次登山隊」の今西寿男とシェルパのギャルツェン・ノルブによって初登頂された
マナスル。じっと見つめていると、よくぞ登ったと思わずにはいられない。
 18日、Timangを過ぎる頃からラムジュン・ヒマール(6,983m)や、氷河をまとったアンナプルナU(7,932m)が見
え始め、思わず皆から歓声が上がった。これ以降毎日、進行するにしたがって、アンナプルナW(7,525m)、ガン
ガプルナ (7,454m)、1950年フランス隊が人類初登頂した8千m峰のアンナプルナT(8,091m)など、見事な山々
を逐次、終日、眺めることができた。まことに贅沢なコースである。

 
        (マナスル〔左〕、8163m)              (アンナプルナU、7932m)


              ( アンナプルナT、8091m)

 23日、朝8時、標高4,230mのレダーより、4,830mのB.C.へと出発した。先発の我々はシェルパと穏やかなコー
スをゆっくり登り、後発のポーターたちはハードな近道を登った。我々はB.C.に正午に到着したが、ポーターたち
は既に到着していた。B.C.はチュルー・ウエストが大きく迫る広い谷状を詰めた手前で、大きな岩が点在し、振り
返るとアンナプルナTの見事な姿が見える静かな神秘的なところであった。手際よく次々とテントが張られた。
我々用のテントはノースフェイスの5〜6人用二張りで、これに二人一組で入る。荷が多いので二人が限度である。
我々の食事用のテントは別で、同じ大きさのものが張られた。チュルー・ウエストが身近に迫り、我々だけの世界、
これでようやくヒマラヤ登山の雰囲気になってきた。高度順応などのためここで二泊して、25日、ハイ・キャンプに上が
ったのであった。

   
      (狭い岩棚に設置したハイキャンプ)                     (同)

 27日の朝10時、満たされない気持ちのままB.C.に降りてきた。手頃な岩に腰を降ろし長時間、シェルパ達が後始
末や荷の整理などをするのを待ちながら、「いつかまた来たい」と、しっかり周りの山々、岩々などを脳裏に焼き付け
ていた。下りは楽なもので、正午過ぎにレダーのロッジに下山した。

 
(残念だが撤退、下山途中の標高5300m?付近で。        (レダーに下山してガイドなどと記念撮影)
後方右の山はヤクワjカン6482m、
中央はトロン・パス、左はトロンピーク6201m)

 帰路は予定では、ジョムソンより空路でポカラに飛び、一泊した後、カトマンズに飛ぶことになっていたが、撤退
で日数が余ったことから、ジョムソンよりポカラへのフライトは取りやめて歩くことにした。東西約50Kmと言われる
アンナプナ山群。これを一周するトレッキングコースは「アンナプルナ・サーキット」と呼ばれ、長く日数がかかる。
既に2/3ほどやっているので、この機会に残りの1/3をやって完遂しようとする計画である。かくして、翌28日より
「トロン・ハイキャンプ」、「ムクティナート」、「ジョムソン」、「カロパニ」、「タトパニ」、「ゴレパニ」、「ティルケドゥンガ
」と順に泊まって、「ナヤプル」より車でポカラへ入ることになった。

 28日、これより帰ることになったシェルパのパサンと、アシスタントシェルパのニーマの二人と別れて、トレッキ
ングを再開した。9時レダーを出発し、1時間半ほど歩いて、つり橋を渡ったところにある茶店で一服。落石があり
そうな斜面をトラバース気味に進み、4,450mのトロン・フェディに到着。大きなロッジで大休憩し、またまたコック
による贅沢な昼食をいただく。フェディで宿泊するトレッカーも多いが、我々の宿泊予定地は、ここから更に上が
った4,925mのトロン・ハイキャンプである。昼食後、重くなった身体で急な坂道をゆっくりあがって、15時に到着
した。ハイキャンプのロッジはきれいではなかったが、明日の行程を考えると、ここまで高度を上げておいた方が
楽である。ロッジの裏に顕著なピークがあり、これに登るとチュルー・セントラルが見えるかも分からない、と思っ
て4名で登ってみたが、やはり見えなかった。

 29日、3時35分、真っ暗の中、ヘッドライトを点けて出発した。本日はアンナプルナ・サーキットの難所、地球上
最高所の峠、5,416mの「トロン・パス」を越えて、ムクティナートまでの予定である。適度に着込んで出発したが
寒いため、途中から目出帽を被った。すると乾燥していた空気が適度な湿り気を帯びて、のどが楽になった。
思わぬ効果であった。高度を上げていくと残雪を踏むことになったが、幸いに凍結していなかった。ところどころに
ルートを示す棒が立ててあったが、もし雪で道が隠れ、ガスなどで視界が悪ければ迷いそうだ。後ろからフランス
やドイツ、などヨーロッパのトレッカーがやってきては、我々日本の山屋さんをドンドン追い越していく。彼らは強い、
我々とは馬力の違いを感じさせられた。 
 峠には7時半頃到着したが、この峠の最高地点に着く手前で、はじめてチュルー・セントラルの稜線が見えた。
気づいた大塚さんと赤澤さんに教えられて振り返ると、逆光のなか、チュルー・ウエストの稜線の向こうに、ウエ
ストの稜線と並行するように別の稜線がうっすらと見えた。チュルー・セントラルだ!「アッ!! やっぱりあった!!」と思
わず叫んだ。

(やっと見えた!! チュルー・セントラル峰。太陽の真下、一番奥の小さく見えるピーク。
右のピラミッドはウェスト峰。黎明の トロン・パスより望遠)

 チュルーは6千m峰が4座ある。事前に調べたとき、4座の山名と標高が資料によりいろいろで混乱していた。
なぜ? と思っていたが、今回行ってみて、その訳のひとつが分かった。それは、「麓からこの4座を同時に見ることが
できるところがないこと」だと思う。見えない山は同定が困難だ。峠で30分ほど休んだ後、延々と下った。ムクティナ
ートが近くなると、ダウラギリ(8,167m)が見え始めた。ムクティナートはチベット仏教とヒンドゥー教の両方のお寺があ
り、大きな街でホテルもあった。我々はホテルに宿泊し、久しぶりにシャワーを浴びることができ、洗濯もできてほっ
とした。

 30日はジョムソンまでの予定である。ジョムソンが近くなるとニルギリ・ノース(7,061m)がだんだん大きくなった。
途中2時間強の昼食タイムをとったが、ジョムソンには13時半頃到着し、早々とビールで乾杯した。まじめに歩けば
まだまだ進めるだろう。ホテルからのニルギル・ノースはまことに大きく見事で、一見の価値がある。ジョムソンの
標高は2,700mほどで、ここから直ぐ前にそびえる標高差4,300mのニルギル・ノースを眺めるのであるから、日本で
は例えようがないが、山中湖から「5,300mの富士山」を眺めるようなものかも知れない。気がつくと登攀ルートを目
で探していた。夕食時、大塚さんが「歯が痛く、食べ物が食べられない」とのことで、明日ひとりでポカラに飛び、
ポカラで歯の治療を受けながら我々3名を待つことになった。空港があると便利である。

 コース中、最高のオアシスは「タトパニの温泉」だろう。11月1日15時半頃、タトパニ(1,190m)に到着した。タトパニ
とは「熱い水」の意味があるそうだから昔から温泉があったのだろう。宿の裏庭から河原に下りると、四角いプール
のような露天風呂が造られていた。完全な露天風呂で囲いも無い、しかも何と男女混浴!! ヨーロッパからきた男女
のトレッカーがたくさん入浴している。皆さん準備よく、水着着用でワイワイとご機嫌である。水着の無い私はやむを
得ず山用パンツで入ったが、長旅だけに温泉に浸かれてほっとした。川崎さんはウィスキーとカメラと持参で、我々
をだしに女性を撮ってご機嫌であった。しっかり長湯した後、飲んだビールは格別にうまかった。


           (タトパニの露天温泉)

 「楽あれば苦あり」で、翌2日はゴレパニ(2,860m)まで、標高差約1,700mの登りである。7時半頃出発し、途中2
時間の昼食タイムをはさんで16時頃の到着まで、ほとんど登りであった。後半、この際「どこまで歩けるか、試して
みよう! 」と、ピッチをあげてどんどん飛ばしてみた。その結果、まだまだ歩けることが確認できて充実感があったが、
お二人にはあせらせてしまったかも知れない。しっかり汗をかいたが、ロッジには温水シャワーがあり助かった。

 後半のハイライトは、「プーン・ヒル」(3,198m)からの眺望であろう。ゴレパニより小1時間ほど登ったところにある
展望台で、3日4:45分、ポーター頭の案内によりヘッドライトを着けて出発し、日の出前に到着した。遮るものの無
い前方には、視界を越える大展望が広がっていた。西に大きくどっしりして堂々たる風格のダウラギリ(8,167m)、
北にアンナプルナサウス(7,219m)、東に鋭いピークと稜線のマチャプチャレ(6,997m)、など、東西数十キロに及ぶ
白い高山の連なりは、山好きにはこたえられない壮観な眺望であった。陽の出とともに高いピークより、徐々に赤
みが差し、赤みが広がっていく様は筆舌に尽くしがたかった。


               (プーン・ヒルより望むダウラギリ、8167m)

 朝食後、ティルケドゥンガに下った。今度は標高差、約900mの下りである。石畳と石の階段が多く、急ぐと膝を
痛めるのでゆっくりと下った。しかし、昼頃には到着してしまった。またまた、ビールとディナーのような豪勢な昼食
となった。このティルケドゥンガの3日の夜は、サポートしてくれたポーター達との最後の夜となるので、夕食後ロッ
ジの庭で、セレモニーと交歓会を行なった。キャンプファイアを囲んで全員着席。チリヌルの司会により、我々を代
表して赤澤さんが英語で御礼の言葉を延べて始まった。次いでこの日まで頑張ってくれたポーター8名、キッチン
ボーイ3名、コック1名の全員に、我々の感謝を込めて御礼のチップを渡し、衣料、手袋などをプレゼントした。
この日は朝から皆ニコニコであったが、この夜は嬉しさ、楽しさが最高潮に達した。直ぐに歌と踊りのオンパレード
となった。阿波踊りで鍛えた川崎さんは、ネパールの歌に合わせて何でも踊ってしまうので、ずいぶんと盛り上が
った。

 4日、ポカラのホテルに到着すると、元気そうな大塚さんが待っていた。聞くと「歯医者には玄関までは行ったが、
医院があまりにも汚いので、治療は受けなかった」とのこと。しかし、痛みは引いたようで、その後は我々と通常に
食事ができて、一安心であった。

 その後我々はポカラで一泊、カトマンズで三泊して、博物館や寺院などを観光し、8日カトマンズを発ち、タイ経由
にて9日の早朝、成田に降り立った。

  今回のネパール・ヒマラヤは、チュルー・セントラルの登山の点では不完全燃焼であったが、アンナプルナを一周
できて、よきメモリアルとなった。いろんな意味で貴重な体験となり、勉強になった。大塚さん、赤澤さん、川崎さん
には大変お世話になり、感謝している。自宅に帰ってヘルスメーターに乗ってみたところ、何と!約3Kgも太っていた
!!また、山に行かなくては!  (完)


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