【アコンカグア峰(アンデス)−勇気ある撤退】

大塚忠彦

■再訪編


<大鼠が巣くっていた(?)オルコネス谷。奥はカテドラル峰>


<小オルコネス氷河からアコンカグア南峰南壁>

昨年と同様、今回もまたアンデスの神は微笑まなかったが、それなりに楽しい山旅となった。 昨年は初回であったから登路の研究もじっくりやって行ったのであるが、今回は下山後のパタゴニア旅行やメンドーサでの遊びの計画に現を抜かして登山そのものの計画はどこかエエコロ加減であったことが、アンデスの神様のご機嫌を損ねた結果に繋がったのかも知れない(と今になって反省をイタシているところである)。
丁度1年前の前回は、高度障害の肺水腫に苦しみ5,300mでリタイア、今回は高度馴化に万全を期した結果、高度順応に関しては満点であったが思わぬ所に罠があった。やはり標高7,000mの山は、我々のようなロートルでしかも「何が何でも必ず登頂を」という執念に乏しいフマジメな輩にはそう易々とは登らせてくれないらしい。

さて、2004年の元旦にはアルゼンチンの広大なパンパから昇るアンデスの太陽神をアコンカグアの山頂で拝む筈であったが・・・。
トランスファーのニューヨークが大雪で出発が遅れ再乗り換え地のアルゼンチン・ブエノスアイレスの空港が変更になったり、今シーズンから始まった「アコンカグア遭難撲滅キャンペーン」によってBCでのドクター・チェック(動脈血酸素飽和度が60台前半以下であれば聴診器による診察があり、肺水腫の疑いがあれば即刻下山勧告を強制される)が厳しくなり、前回から顔馴染みになっていたレンジャー隊員から、この勧告を受けた幾つかの日本人パーティーへの通訳や説明や説得を依頼されて、一晩中添い寝で病状を監視したり、逆にこの勧告が不服で当局(州立公園局)の方針に憤懣やるかたない日本人から恨まれたりで、今回はいろいろなこ とがあったが、何といっても特記すべきは予想だにしなかった“罠”であった。
通常は入山第1日目のコンフルエンシア・キャンプ(3,300m)に1〜2泊して高度順応し、ここからBC(プラサ・デ・ムーラス、4,300m)までの8時間行程は1日で登るのが普通であるが、我々は体力の温存と一層の高度馴化のために、途中のイバネス・キャンプサイト(3,960m)付近で1泊して中継ぎすることにした。ここは真っ赤な泥水が流れているだけで(アコンカグアの谷はどこもレッドリバーバレー)飲料水は全く無い場所であるから、前日コンフルエンシアから高度順応を兼ねて8gの水と食料、ガスボンベ、6,000mから上で使う高所防寒服などを高所テントの外張りに包んでデポしておいた。

さて、翌日。イバネスに辿り着いてみると、河岸段丘の上にデポしておいた装備の包みがどこにも見当たらない。積み石も跡形なく消えている。鉄砲水で流されたか?!、強風で飛ばされたか?! デポした場所が分からなくなったか?! アコンカグアでは夏場には一滴の雨も降らないし、氷河が急に溶け出して洪水になるようなこともない。確かにこの谷は強風地帯ではあるが、デポを大きな石で囲み更に上にも沢山石を載せておいたから風で飛ばされた筈もない。ここは今までに何回も通い慣れた場所であるから地形を見間違うこともない。さては、このオルコネス谷に巣くうという大鼠?にでもやられたか。現地の知人から、“昨日BCに張られていたテントが翌日には街の登山用具店に並んでいる”から充分注意するようにとよく聞かされていたが、まさか我が身に降りかかるとは想像だにしていなかった。しかし、無くなったものは仕方がない。不用意にデポした我々にも責任があるし、この国では置いてある物は何でも自由に持って行ってよいという慣習が昔あったとか今もあるとか。南米では珍しく治安が良いと言われているメンドーサでは、今回も前回も深夜の裏通りでも何の不安も感じなかったから多少気が緩んでいたのかもしれない。
しかし弱ったナア。たちまちの食料と水が全く無い。食料は1食や2食喰わなくても標高であと400mも登れば、ラバで荷揚げしておいた食料がBCにはどっさり届いている筈である。しかし高山病予防のためには水分は不可欠である。恥ずかしい話であるが、通りかかる下山者を誰彼なく捕まえて水やジュースや食料の残りを恵んで頂いた。あちこちのポケットを探した挙げ句、アメ玉がたった一つ残っていたとわざわざ引き返して届けてくれたアメリカ人、ザックの底をさんざん掻き回してグシャグシャに潰れたペットボトルに僅かに残っていたジュースをくれたドイツ人、後4時間も下れば食料や水が得られるコンフルエンシアだから食料や水は生憎何も持っていないと申し訳なさそうに謝っていたアルゼンチン人など、多くの異国 の人々に心からお礼を申し上げたい(この件が運悪く高所のキャンプサイトで起きていたら、たぶん命に関わっていたであろうから、それだけでも幸運に感謝しなければならない)。

高度順応がうまくいったお蔭で、BCから上は順調に前進キャンプを進めて大晦日にキャンプ・ベルリン(5,800m、通常最終キャンプ)に幕営。翌元旦未明、頂上に向けて出発したが、外張リの無い一枚布のテントで過ごした5,800mの夜は寒かったし、高所服の無い身体は寒さに震え、手や足の感覚が全く無くなってきた。すぐ上に見える頂上をうらめしそうに見上げながら6,040mまで登った所で撤退を決意。
この事件が登頂の成否に影響しなかったといえば嘘になるが、登頂できなかったのはこの件だけに責任があるのではなく、根本的には“執念”の欠如と反省している次第である。アコンカグア唯一の英文ガイドブックであるSecorの『アコンカグア:登山ガイド』という本の高所医学(凍傷)の章に、「(身の丈に合わない無理をしてまで)アコンカグアの頂きに登頂するという行為は、たった指1本を失うことにも値しない・・・」と書かれているのを金科玉条にしている私であるから。(誤解のないようにお断りしておきたいが、アコンカグアにはノーマル・ルート以外に南壁などの極めて困難なルートが多数あり、ここで結果的に遭難死したり重い凍傷に罹ったりしたクライマーは数多い。引用部分はこのようなクライマーを非難している訳では決してないし、また壮絶な登攀行為を否定している訳でもない)。

さて、話を出発点に戻そう。最初のキャンプ地であるコンフルエンシアで2泊、 翌日は前日デポしておいたイバネス泊まりであったが、ここで上述の事件が起きていたのである。マア、何とかなって予定どうりBCに到着。メンドーサでは今年は4月から8ケ月間一滴の雨も降っていないそうで、道中も昨年に比べて残雪が少なかった。イバネス付近に昨年は残っていたペニテンテス(風が作った珍しい雪の造形。氷柱、小セラック)も今年は影も形も無かった。 今回は前回の高度障害に凝りて、入山以後はセルベッサの誘惑にもひたすら耐え、タバコも金魚スタイルで吸い、腹式呼吸と吸吐2回式呼吸を心がけたせいか、BC到着時の動脈血酸素飽和度は79であった(平地では100が標準)。駐在ドクターも初日の数値にしてはvery goodだと褒めてくれた。 BCでの高度馴化も順調で、BCから上に登れる目安である酸素飽和度85以上をキープできるようになった。顔馴染になった駐在ドクターやレンジャーから日本隊との通訳や交渉、高山病になった人の世話を依頼されたことは前に書いたが、これは小生の英語や片言のスペイン語が買われたというよりも、高度馴化模範囚としてであろう。

ある晩テントで夕食を喰っていた時、レンジャーのボスが“?Quieren ustedes ayudarme?, por favor.”(Would you please help me?)と訪ねて来た。彼はヒゲを生やして威厳のある顔をしているが、いつもは“Hola,・・・”でやりとりする間柄である。この時はマジメな顔をして少し慌てているような気配であった。何事かと聞いてみると、今日の夕方BCに登ってきた日本人2人パーティがどちらも肺水腫に罹っていて下山勧告したのだが、その内の一人が勧告を拒絶し、治療も拒否しているのでお前から説明と説得をして貰いたいとの依頼であった。レンジャー、ドクター同道でこのパーティーを訪ねたが、正直この拒絶氏には少々手こずった。

拒絶氏「ドクターから、酸素飽和度が50しかないし、肺ナントカに罹っていると言われた。ワタシは異常は全く感じないし、昨年はキリマンジャロに登った経験もある。酸素チェックは機械が間違っていることもある。折角高い飛行機代を払っ
て地球の真裏まで来てBCまで登っただけで帰れとは何事であるか。きっと日本人を標的にしているに違いない。治療も下山勧告も拒否する。ワタシの今後の行動はワタシ自身で決める」
ドクター氏「アナタハ、肺水腫デアル。コレ以上病状ガ進マナイヨウニ、ダイアモックス錠ト注射ヲスルカラ尻ヲ出セ。明日ノ朝ラバで下山サセル」
拒絶氏「拒否する。どうしようと、ワタシの勝手である」
ドクター氏「肺水腫ハ重篤ナ高山病デアルコトヲ認識セヨ。我ガ国デハ、肺水腫ニ罹ッタ者ハ1年間高山ニ登ルコトヲ禁ジテイル。高山病ガ進行スレバ、肺水腫ダケデ無ク、脳水腫ニモ発展スル。昨年ノ遭難死ノ例デハ、ウンウンカンヌン・・ ??□△○??・・・」
拒絶氏「ワタシは日本人だ。貴国の規則に従う必要はない」
レンジャー氏「ソコマデ言ウナラ言ウガ、アナタハ入山許可証ノ注意事項ヲ熟読シ、規則遵守ノ署名モシテイル筈デアル」
(入山許可証には、アコンカグア州立公園内ではレンジャーの指示に従うこと、ゴミを捨てないこと、環境を守ることなどが小さなスペイン語で書いてあり、許可取得時に署名させられるが、こんな小さな文字は誰も読んではいないし、スペイン語を解しない人も多いだろう)
拒絶氏「そんなことは知らない。参考までに、下山勧告を拒絶したらどうなるのか?」
レンジャー氏「勧告ヲ受ケ入レルコトヲ強ク勧メル。拒絶シタ場合ハ、誠ニ残念デハアルガ、州法ヲ破ッタ犯罪者トシテ当局(警察)ニ引キ渡スコトニナル。ゴ参考マデニ言ッテオクガ、我ガ国デハ裁判ニハ多クノ時間ト金ガ掛カリ、アナタハ拘留 サレテ当分ノ間、帰国ハ覚束ナイデアロウ」

という次第で、拒絶氏は明日の朝再度診断して貰い、その結果でレンジャーに再判 断して貰うという条件で一応納得して尻を出し注射を受けた。(翌朝、再度診断があったが、ドクターの言うことは同じで、結局その日に渋々ラバで下って行った。ドクターが高山病と診断すれば、レンジャーはイエローカードを2枚書く。1枚は下のレンジャーステーション宛、もう一枚は患者が加入している保険会社宛のものである。いろいろなケースを見ていると、一度ドクターが決定すれば、様子を見て快復したら再度判断するなどということはなく、最初の決定でイエローカードの作成、下山のラバ手配などが総てなされてしまうらしい)
以上の会話はスムーズにいったように書いたが、実はこの時のドクターはスペイン語しか話さず、エスパニョール俄仕込みの小生には難しい医学用語など分かるはずもない。従ってドクターのスペイン語をレンジャーに英語に訳して貰い、それを日本語で拒絶氏に伝えるというややこしいことになったから、拒絶氏もイライラしたことであろう。拒絶氏から見れば、何で他の日本人が介入してきて当局側に味方するのかと、面白くなかったであろう。

さて、BCで高度順応が完璧なら、前進キャンプは所謂折れ線グラフ方式(“climb high,sleep low”を繰り返しながら順次高度を上げていく方式)ではなく、右肩上り方式(高度順応のために一旦下に降ることをせず一気に高度を上げる方式、“crimb high,sleep high”)が良いというレンジャーの勧めで、第1キャンプ(キャンプ・カナダ)にだけは登下降方式で荷揚げしたが、第2キャンプ(ニド・デ・コンドレス、コンドルの巣)、第3キャンプ(キャンプ・ベルリン、最終キャンプ)にはそれぞれ1泊だけして、ベルリンからそのまま頂上を狙うことにし、12月28日BCを出発した。前進1泊目のカナダでは、イタリア隊から紅茶とチョコレートを御馳走になり、お返しにヨーカンを差し上げたりして交歓した。2泊目のニドでは、小型ではあったが岩壁に舞うコンドルの番い(つがい)を見ることができた。ここはアコンカグアの北西稜がクエルノ山に落ちる広大なコルで、大きな雪田が残っている。上部ペニテンテスの下の誰かが積んだ石積みの中に天幕を張る。前回はここで肺水腫に苦しみ、他のパーティーのガイドの進言で翌朝リタイアして下山したが、今回は高山病の症状もなくルンルン気分である。

話がBCに戻るが、盆地状になっているBCを取り囲んでいる屏風のような山なみは5000m級の峨々たる岩山の連なりで、オルコネス谷の奥に城郭の尖塔のような姿で聳えているカテドラル山からクエルノ山を経由しニド・デ・コンドレスに至る縦走は、例えば雪が付いた劔・八ツ峰の標高を2倍に上げてその規模を数十倍くらいに拡大したようなものといえば大体の想像がつくと思うが、いつかは縦走してみたい稜線である。ひょっとしたら初踏かもしれないナ。マア、儚い夢に終わるかも知 れないが、その“見果てぬ夢”のためにニドからクエルノ山への稜線の偵察を兼ね
てコルの西端まで歩いてみた。稜線北側の斜面には深く切れ込んだルンゼが何本も食い込んで、劔岳の東大谷のようであった。
ふと見下ろした暗いルンゼの棚に何やら白骨のようなものが見えた。遭難遺体か!? よく見るとそれはラバぐらいの大きさの動物の白骨であった。運搬に使われるラバはこの辺りを通ることはないし、野生のグアナコ(リャマの一種)も一木一草も生えていないここまで登って来る筈もない。さて は・・・?
確かSecorの本にも、古代インカの祭祀跡がアコンカグア南東稜のピラミダル峰付近で見つかり、そこにはミイラとグアナコの骨が残っていたと書いてあった。古代のインカは高山のいたるところで祭祀をしたという考古学者の説もあるから、ひょっとしてここもミイラを祀ったインカの祭祀跡ではないか? さすれば、その辺りの岩棚には虚ろな目をしたミイラがじっとこちらを見ているのではないか? いろ いろ考えているうちに、前回の旅の途次にペルー・リマの民族学・考古学博物館で見た多数の屈曲ミイラを思い出して背 筋が寒くなってきた。

ニドから上は小生には初めてのルートであるが、相棒は前回もベルリンまで登っているから、彼を先導にバッチグーで高度を稼ぎ、早くも昼過ぎには標高5,900mの第3キャンプであるベルリンに登り着いた。ここは、アコンカグア山頂に至る肩の様な場所で、さして広くはないが登ってきたニドのコルや遥か下方にはBC裏のオテル・レフヒオ(山小屋)が良く見える眺めの良い伸びやかな平地であった。期待していた一番大きい三角屋根の避難小屋は先客に占領されて足を踏み入れる余地も無かった。他の二つの三角屋根は雪が吹き込んでいて使用に耐えないが、その内の一つにはメキシコのパーティーが雪を半分程?き出して潜り込んでいた。

仕方ない。外張は盗まれて無いが、天幕を張るしかない。苦労して天幕の中にツエルトを張って内張りの代わりにする。その分天幕内部が狭くなって、2人座るのがやっとの広さであるが寒いよりはマシだろう。その辺で拾ったペットボトルを溲瓶に使ってみたが、これはなかなか調子が良かった。天幕の外に出ないで用達しできるだけでも助かる(シュラフカバー、シュラフ、天幕の各ジッパー、外張の吹き流しの開閉、オーバーズボン、ズボン、インナーズボン、パンツの各ジッパーの上げ下げは、酸素が薄い高所においては、これだけで想像以上の重労働で、ヘトヘトになってくる。おまけに高山病予防のために大量の水分を摂取しているので、夜間も4回ぐらい催すから用足しも死ぬ程の作業となる)。溲瓶式には最初は慣れていないので、中腰と手元のバランスが取れなくて隣に寝ている相棒のシュラフの上に垂らしたりした(ゴメン)。また、小生のモノは立派すぎて、日本の2倍くらいはあるアルゼンチンのペットボトルの口にも入らないから、口から液体が溢れたりした。(今回は、キャンプサイトで拾ったペットボトルを水用にも使ったが、ひょっとして外人のオシッコの残滓を飲んだかもしれないナ)。

さて、翌朝は大晦日(Noche Vieja)。
今日は6,960mの頂上を往復する日である。標準コースタイムは往復12時間であるが、我々ロートル組は16時間はみなければいけないだろう。午後14時までに山頂を下らなければ、日中の暖かい時間帯に(暖かいといってもマイナス20度くらいにはなる)ここまで帰着できない。従って早朝の4時には出発しなければならない勘定になるが、寒くてテントから出る気がしない。
マア21時までは明るいから何とかなるワイとタカを括って6時に出発してはみたものの、寒くて寒くてどうにもならない。高所防寒用に新調した羽毛服上下は鼠に盗まれているから、身体が寒い上に手足の感覚も痛さを通り越して感覚が無くなってきた。これはイケナイ。指が凍傷に罹ってヘタをすればメンドーサの病院で切断、長期入院となるやも知れぬ。Secorの本にも、凍傷になった指を切断して苦しんでいるクライマーの例が沢山書いてあったではないか。やはりここは「(凍傷の危険を冒してまで)アコンカグアの山頂に立つことは、指1本失うことにも値しない・・・」というSecor先生の教えに従うにしくはない。相棒は如何にやと彼を盗み見ると、彼も震えているようだ。ヨッシ、ここはベテランの分で「勇気ある撤退」といこう、ということで1時間程登ったところで天幕に逃げ下った。

天幕の中でストーブを炊き、やっと人心地を取り戻した。9時になれば太陽が昇って暖かくなる。相棒は前回6,030m地点まで到達しているので、今回はそれを若干でも上回りたいという。もっともな要求であると10時に再び上に向けて出発した。どうせ山頂まで行ける時間はないから、気楽なものだ。前回の彼の到達高度を10mだけ上回る標高6,040mでリタイア。ここはホワイトロック・キャンプサイトのすぐ下の広大な泥の斜面で、右手下方には長大なギュッスフェルト氷河が見える。頂上は始終右手上の今にも手が届きそうなすぐそこに見えているのだが、実際は比高にして900mも上であるからアコンカグアの規模の大きさが想像できよう。
6,000mの高度に長居は禁物である。早々にベルリンに戻り天幕を撤収、BCに走り下った。BCでの高度順応期間も含めて、BCからベルリンまで11日間を要したが、下りはこれを4時間程で駆け下った計算になる。高度順応と高所での登高に如何に時間を要するかが分かろうというものである。

またもアコンカグアには登れなかったが、下山後に旅したパタゴニアやウルグアイはそれなりに楽しいものであった。(完)

 


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