中国梅里雪山・玉龍雪山トレッキング

小室 豊

山仲間の交流山行で計画されていたネパール・アンナプルナトレッキングが同国の政情不安から中止になったため、4月24日から5月8日の15日間、有志10名で雲南省省都昆明から中国雲南西部の「梅里雪山(メリシュエシャン)」「玉龍雪山(ユーロンシュエシャン)」を中心にした山麓へバスと足でトレッキングに行ってきました。バスの走行距離は実に往復2,500kmにもなりました。山と渓谷社出版の中村保著「ヒマラヤの東」にも記述されているように、玉龍雪山から梅里雪山への道は高低差1,500〜2,000mを5〜6回繰り返しながら走り、その風景は見事なものでした。特に揚子江上流(フティアオシア)」は東に玉龍雪山、西に哈巴雪山(ハーバーシュエシャン)と5,000mクラスの雪山の間を流れる渓谷で、江面から直立の岸壁が1,000m位あり、江面と山頂の高低差は3,000mもあるという大渓谷でした。

雲南省とチベツト自治区の境にある梅里雪山は雲南省最高峰で6,740mの未踏峰の山群です。山姿は年に数日しか展望できない雪山と言われていますが、われわれが訪れたときは天候に恵まれ、その見事な容姿を一部望むことができました。また、この地域は金沙江、メコン川の上流瀾滄江(ランカンジャン)、サルフイン川の上流怒江(ヌジャン)が最も接近して並流している(その距離4〜50kmといわれている)ヒマラヤ東の侵食の国と言われているところです。

われわれは雲南省の東の町徳欽(ディジン)に泊り、ここからバスで瀾滄江(江面約2,000m)を渡り、西当村から3,600m峠を越えて最奥の桃源郷のような雨崩村(標高2,600m)へ歩いていきました。途中馬に乗る人もいましたが、雨崩村の村長が経営するゲストハウスに泊り、4月30日雨崩村から神聖な滝があるという3,400m附近の神瀑に向いました。3,200m附近から氷河になり、4,500m附近の斜面からの雪崩でデブリが至るところにあったため、危険を避けて神瀑数百bの地点で引き返しました。1990年に京都大学学士山岳会が中国との合同でこの雪山の登頂を試み、雪崩で17名全員が死亡するといういたましい遭難事故に遭遇していますが、間近に見る梅里雪山の斜面には氷河の下部の舌先が今にも落下するのではないかと不気味なものでした。
雨崩村下村から3,200m附近までは石楠花やプリムラか咲き乱れ、心和むトレッキングコースでしたが、雪道になると途端に無気味な様相を示していました。われわれの泊ったのは雨崩村上村で、下村から上村までは200m程の高低差がありましたが、この山肌にはワラビが生えており、わが女性メンバーはこのワラビ狩も楽しみ、翌日の朝食に色を添えてくれました。雨崩上村のゲストハウスに2晩泊りましたが、私は上村の上部にある氷河まで行こうと2日間とも早朝にトライしてみましたが、時間不足のためあと20分位というところで断念しました。

5月1日、雨崩村からの帰る途中のチベット仏教の寺飛来寺のある展望台から梅里雪山を遥拝しようとバスから下りましたが、午後になっていたため、その雄姿を望むことはできませんでした。ここには京都大学と中国の合同隊の遭難慰霊碑がありましたが、日本人の名前は全てかき消されていました。梅里雪山はチベットのラマ教の聖山で、登頂をしてはいけないと言われていたところを強行したため、地元の人にとっては恨みがあったようでした。この登頂期間中約20,000人からの僧侶が神聖な山に登ってはいけないとお経を唱えていたとのことでした。
今回のトレッキングではいろいろな場所が印象に残りましたが、数年前にジェームス・ヒルトンの小説「失われた地平線」のシャングリラにちなんで中甸(ツォンディアン)から香格里拉(シャングリラ)に変更した香格里拉や玉龍雪山の基地麗江(リージャン)などの風景は素晴らしいものでした。金沙江の虎跳峡も1日ゆっくりと哈巴雪山側の斜面を歩いて見ましたが、見事な渓谷を展望することができました。また、香格里拉と徳欽の間にある白茫雪山(バイマンシュエシャン)の4,200mの峠越えも見事でした。次はこの白茫雪山登頂と怒江トレッキングを実現したいものと思いながら5月8日元気に帰国しました。

 


海外登山紀行目次へ

TOPへ