◆ コトパクシ峰 奇譚 川崎 義文

  ◎期日=2009年4月6日〜23日
  ◎パーティー=赤澤、坂井、川崎

【2009年4月6日より23日まで、赤澤東洋氏、坂井康悦氏、そして私・川崎の3名で、
 エクアドル・アンデスに遊びました。
 以下は、コトパクシ峰(5,897m)の アタックの模様、敗退経緯等です。】

 4月11日 17時、ホセリバス小屋(標高4,800m)に着き、深夜の出発に備え、直ぐに
シュラフに潜り込みました。窓の外の明るさに加え、どきどき・ワクワクと期待に胸が弾み
気分が高揚して、寝付きが悪かったのですが、何とか無理やりに睡眠にもちこみました。
22:30、出発準備の大勢の挑戦者でごったがえす食堂で「朝食」を摂りました。食堂は
真っ暗で各人のヘッドランプが錯綜し却って暗闇が強調されていました。此処で・この時・
初めて、もう一人のガイドを紹介されました。てっきり先日の高度順応パソチョア峰の際の
ガイドと思い、いつキトから到着したのか?と聞くと、「ここに住んでいる」との返事。
この小屋で働いているのか、小屋に常駐しているガイドか? いずれにせよ、初めて会う
人で、名前は聞き取れず、顔・輪郭はお互いのヘッドランプ逆光効果で判りません。
23:30 ガイド2名・我々3名は小屋を出発し、ワンピッチで氷河雪渓に達し、そこでアン
ザイレンをしました。
第一組 既に数日来のお付き合いしているMr.Cガイド+S隊員、そして 第二組 初対
面のMr.Xガイド(以下、Xと呼びます)+A隊員+私、が「2組のロープ」で、アイゼンを
効かせながら登り始めました。
多くの欧州系屈強の若者達にどんどん追い越されますが、これは仕方ないでしょう、年齢
の差ですから。
Cガイドは既に2度に亘る高度順応登山で我々の力量を評価済みでしょうから、OurPace
で、歩を進めてくれました。
しかし 体調不良のA隊員からリタイアー宣言があり、Cガイドが随伴して下山することに
なりました。
以後、Xガイド+S隊員+私でアンザイレンして登り続けた場合、私又はS隊員、どちらか
がダウンすれば、全員が登頂できなくなります。S隊員も少々疲労気味であったようで、
私に後事を託していただいた格好で、S隊員もCガイド・A隊員とロープを結び、闇の中、
下山してゆきました。
さて、私 意気軒昂、必ずやチーム代表として登頂するゾ!と、Xガイドとロープを結び、
勇躍して出発しました。 ――この時の、Xガイドの存念はどうだったのでしょうか?――
今まで追い抜かれてきたパーティーをドンドン抜き返すスピードです。30分も経てば息切
れが始まりました。私のスピードが落ちるとロープがピーンと張り、チョンチョンと小刻みに
合図が送られてきます。
引っ張り揚げてやろう、との温情ではなく、急かせているのでしょう、煽っているのです。
一回目の休憩のとき、Xガイド曰く、07時30分までに頂上に着く目処がなければ帰途の
雪崩を鑑み撤退せざるを得ない、と。当初は8時30分ぐらいだと聞いていたのですが・・。
そして、再出発の後も猛スピードで煽られ、先行の精鋭若者パーティーを追い越し続け
ました。
  ――ようやく、Xガイドの魂胆に気が付きました。アカン!潰される!
        こりゃ〜 登らせてくれないナ、と! ――
急峻な雪壁を登り詰めたところで休憩を要求すると、さぁ〜どうする?引き返すか!
との無言の圧力をかけられました。
私、実際のところ、この猛スピードにバテ気味でしたが、それ以上に、今後のXガイドの
「ガイドぶり」には我慢できそうにもありませんでした。
真っ暗の中、顔も判らぬ・名前も知らぬX、たった二人きり、5500m超の深夜の雪中、
イジメに耐えられるだろうか? いや、あと3時間4時間だけ頑張ればいいんだ!!
でも、こんな奴・こんなガイドとあと3・4時間、頑張れるだろうか? アカン! 滂沱の涙
の挙句、リターンを告げると、Xガイドは‘You! decided , you! decided’と数回繰り返し、
念を押し、即座に下山体勢に入りました。一刻を争うような下山です。急斜面では尻セード
をさせられます。
傾斜が緩くなり滑りにくくなると、Xガイドは「下方に先行」してロープを引っ張り、
私を引き摺り下ろすのです。
Xガイドがつけた踏み跡の凸凹を私の尻がなぞらって落ちてゆくことになり、その痛いこと、
苦しいこと・・・・。
雪渓末端に着き、ロープを解き、アイゼンを外しました。
私がアイゼンをザックに仕舞っている間に、Xガイドは自分のアイゼンを手にぶら下げたまま、
独りで、飛ぶが如く下方に消えてゆきました。一言の挨拶も会話もありません。
私は まだ明けやらぬ小屋の方向に、揺らぎながら下りてゆく一つのヘッドランプの灯りを
呆然として眺めているだけ・・・・
そして漸く腰をあげ、独りとぼとぼと小屋に向かい下りて行きました。

この登山のガイドに関しては「成功報酬」の契約ではありませんでした。
Xガイドにとっては、我々全員が・我々の一人でも、が登頂に成功するとしまいとガイド料
には関係ありません。
出来るだけ早く撤退することを望んでいたのだと思います。
丁寧に登頂に結びつけるように長時間をかける意思は全くなく、
逆に、積極的に撤退に追い込んできたのだと思います。
4月12日 05時過ぎに独りで小屋に帰着し、すぐにシュラフに潜り込みました。
Xガイドとはその後一度も顔を合わせることもなく、ホセリバス小屋そしてコトパクシ峰を
後にしたのです。
顔も判別できず、名前も覚えていない人間とロープを結んでいた訳です。Xガイドも、
私の顔も名前も知らなかったでしょう。
そして日々毎日訪れる登山者の処理に追われて、東洋の一人の老人の事はまったく記憶に
残らないのでしょう。

2006年、奇しくも・今回遠征隊と「全く同じ3名」A隊員・S隊員・私 3名で、ヒマラヤ
Imja Tse峰(6,160m)に登頂成功しています。
その際のガイド契約は基本料金を低くし、登頂の「成功報酬」を設けていました。
懇切丁寧な激励と助言を受けながらの登攀だったと感じております。
そして、その翌年 ほぼ同じガイド陣容を雇い、ヒマラヤ・アンナプルナ山群Chulu Central峰
(6,584m)に挑戦しましたが、その際はガイド陣へのチップ額は成功不成功に関わらず前以って
決められていました。
前年にImja Tse峰で顔なじみになっていたガイド陣なので不愉快な扱いを受けることはなかった
のですが、登頂へ導いてやろうとの意欲はそれほど感じられず、ガイドだけの先行偵察により
撤退を勧められ、我々隊員の眼で現実の状況を確認できずに、ガイドの意見に従い、
前進キャンプより撤退したのでした。 − 閑話休題―

エクアドルを離れる際、お世話になった旅行社の担当者に少しだけ事情を話しましたところ、
このようなガイドの振る舞いは、時折耳にするとのことでした。
でも、山岳ガイドにもいろいろ、ヒマラヤでも欧州でも、そして日本でもいろいろです。
此処・エクアドルに限ったことではない、と 好きになった素晴らしい国・エクアドルを弁護
いたします。
私が・我々が、ガイドに軽んぜられないように、訓練を重ね、実力をつけておくことが、
最大の対策であろう!と 反省をもしております。


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