【ゴーキョピーク・トレッキング】

大塚忠彦

■ネパール点描


<古都パタンの水売り>


<パシュパティナート寺院の河畔火葬>

紫雲棚引く宮居の奥で乳母、爺や、執事、家庭教師、侍従、幇間、大奥ノ局などなど数多の取り巻きにかしづかれて育った深窓の貴公子(と思いたいが、実は田舎の山奥で水呑み百姓の子として泥にまみれて育ちつつ、汚い布団の中で夜半ふと目覚めて、ご落胤のお伽草紙の主人公に我が身を置き換えて想像を逞しくしているうちに、夢と現が渾然一体となって、世が世ならひょっとして尊い血筋のお公家様ではあるまいかと・・・)は、一生に一度で良いから、そのようなお大尽遊びを実現してみたいものと思いつつ、永年逆の立場の宮仕えに終始し、齢六十路を越えてしまった。その夢が、まさかこんな形で実現しようとは夢にも思わなかった。

毎朝起きればすぐに寝床まで顔を洗う洗面器の湯を持ってきてくれる。それからモーニングティーがきて、やおら食堂に顔を出すとティー、メイン、フルーツ、コーヒーのフルコースの朝食が各自に給仕される。旦那衆はどっしりと座して喰いたい物をアゴで注文すればコックが恭しく捧げ持って来るのである。トレッキングの道中は重い荷物は全てポーターに担がせて、旦那衆は水筒とカメラだけの蝉のように軽いサブザックで軽々と歩を進めれば良いという寸法。
昼食もコックが全てその都度フルコースを作ってくれる。また、3時頃になればその日の泊まり場に先行して炊事の準備を始めたコックが茶を沸かして、態々ヤカンとカップを持って引き返して来て暖かい午後の紅茶をサービスしてくれるのである。夜は夜で、これまたフルコースのディナーの後は、おまけに湯たんぽまで配ってくれるという塩梅。何しろ、旦那衆16人に対してガイド5人、その他ポーター、コック、ウェイターを含めて25人もの従者が付くのであるから、現代版の大名行列であろうか。花魁衆を引き連れて歩けなかったのが残念といえば残念であるが平均年齢60数歳の旦那衆とオナゴ衆のパーティーであるから、これは無理というもの。是非にもという輩は宿場宿場で床屋の二階に上がる手もあろう。

さて。
ヒマラヤ通の小室さんがネパール・ヒマラヤのトレッキングを企画し、メンバーを集めてゴーキョ・ピークのトレッキング隊を組み立ててくれた。
参加を宣言した我が家では、鬼共が「つい3ケ月前にアコンカグアから帰ったばかりではないの? 老齢の田舎の両親をほったらかしにして1年間に2回も海外登山に出掛けるとは一体何様の了見? いやいや、今年の暮れにも密かに3回目のアコンカグアを企んでいるようだから、1年間で足掛け3回にもなるワヨ。留守中に万が一のことがあったら一体全体どうするお積もり? たいが〜いにシナサイ!!」。平素から家族に信用ゼロの濡れ落ち葉のワタクシ奴としましては五体投地の如く平伏して「左様、左様、全く以て仰せのとおりにござります。しかし、しかしながら、・・・今回は・・今回のヒマラヤは・・・でござりますれば・・・、何卒ご裁可を頂きたく伏してお願い申し上げ奉り・・・ムニャムニャ・・」と言葉を濁して逃げ切るしか方法がござりませヌ。これぐらいの苦労は、旅行社のトレッキングアー料金の半額でヒマラヤに行けることを考えると取るに足らない屁の河童でございました。
小生はどちらかというと清浄な山よりも人臭い巷に興味がある口ですので、カトマンズの街やヒマラヤ街道の邑の様子を書かせて頂くことに致します。

プーケット、バンコク経由で14時間、いい加減エコノミークラス症候群になりそうになった頃、トリブバン国際空港に着陸。ガイドのディリップ・タパとナバラジ・ポーデルの出迎えを受けてカトマンズに入る。カトマンズの下町は狭い道路にオンボロ車、ミゼット、バイク、人力車、自転車、歩行者、はては牛までが行き交い、その警笛と排気ガスと埃の喧騒は只事ではなかった。バイクが非常に多い。10分も歩いていれば、頭痛がしてくるくらいだ。何という楽器かは知らないが簡単な手作りの弦楽器やイカサマらしい仏像を売る男が何人かしつこく付いて来て日本語で「コレ安イヨ。安イ。300(ルピー)。幾ラ?、幾ラ?(なら買うか)」と煩い。下町のターメル地区には低層のレンガ積み商店が犇きあっていて、ゴチャゴチャとした印象であった。仏像・仏画、絨毯やネパール刺繍のT-シャツなど、土産物屋も多い。また地元庶民のための食料屋(野菜果物、肉、香辛料、穀物)や雑貨屋、金物屋なども業種によって区画割されているようである。銀行、両替屋、ツーリスト、トレッキングガイド、本屋、レストラン、ホテルもピンからキリまで犇いている。

翌朝、カトマンズ空港から16人乗りのセセナ機でクーンブ・ヒマールの登山基地になっているルクラに向かった。カトマンズ盆地を離陸すると直ぐに山にさしかかる。山の天辺まで小さな棚田が重なるように作られていて、まさに「耕して天に至る」の景観であった。飛行機は狭い谷に沿って斜面を嘗めるように右左に飛ぶから、気流に翻弄されて揺れること夥しい。飛行機嫌いの小生は、昨夜の宿酔いも手伝って殆ど死んだも同然の態。僅か40分の飛行時間が10時間くらいに感じられた。心ノ臓が停まって本当に死ぬかと思った。緊張で掌と額からの冷汗は流汗滝の如しで、窓から見える真っ白なヒマラヤ連山の神々しい光景を見る余裕などは微塵もなかった。
ルクラ空港は、猫の額ほどの狭い斜面に作られた空港で、200mばかりの滑走路も急坂の斜面に作られており、そこに登坂するような形で着陸する。離陸もこの坂を一気に下ってハンググライダーよろしく浮き上がるのである。ここでポーターに荷物を振り分ける。ポーターは客人の荷物全部と一切の食材、鍋釜、燃料を背負うから、結構な目方であろう。竹で編んだ尖底土器様のカゴに荷物を縛りつけ、これを額ベルト(tumpline)で支えて運ぶのである。頑強な人は80kg以上も担ぐそうである。一般的な相場は、担ぎ易い物で一日1kg当たりRs10(ルピー、以下同様)、担ぎにくい物でRs15だそうだ。1Rs=1円50銭ほどだから、1日の稼ぎは〜1000円ほどである。カトマンズの平均的なサラリーマンの月給が3〜5万円ほどだそうだから、マアマアの稼ぎかも知れない。ポーターの大体は破れズボンにゴム草履か破けて指が出たような靴を履いており、裸足の人もいる。中には綺麗なトレッキングシューズを履いている人もいるが、これはトレッカーが置いて行ったものであろうか。 小学生くらいの小さな子供までポーターをしており、我々の感覚から言えば気の毒な気もするが、しかし、これはこれで彼らの生まれついた生業であり、そのために身体も頑丈になり、将来ガイドへの道も開けているのであるから、第三者がとやかく言うのは彼らの文化と価値観への侮辱でもあろう。

ルクラはヒマラヤ街道の始点で、狭い通りに宿屋や土産物屋がゴチャゴチャと貼り付いている。空港には客待ち顔のポーターも大勢屯しているし、銃を持った警備隊員もいて最初はちょっと気持ち悪かった。帰途ここに1泊した夜、バーでも開いていないかとホテルを出てみたことがあった。真っ暗な通りには人一人歩いておらず、二、三歩通りに出た所で急に犬が数匹飛び掛かってきて度肝を抜かれた。直後丘の上からこちらに向かってサーチライトが照射され、何が起こったのか分からないままに身体が竦んで立ち往生してしまった。丘の上には銃を持った男達がいたようだった。撃たれるかと思った。後で聞いたところでは、マオイストのテロに備えて夜間は軍隊により戒厳令が敷かれているそうだった。犬は軍用犬だった。

ヒマラヤ街道のロッジはどこも似た様な作りで、寝室は通常ツインのベッドルームとなっている。マットは敷いてあるが布団は無いので持参した寝袋で寝るスタイル。個室とは言いながら、隣との壁はベニヤ板であるから、ナニを楽しむ向きには不都合であろうが、逆にソノ筋の好事家には好都合かも知れない。トイレは水洗式か厠式かは別にして共同トイレがあり、またバケツ1杯の湯を掛けてくれるシャワー小屋もある。余談であるが、この辺りのトイレは大概は所謂厠式の小屋掛けで、便壺の代りに松の落ち葉が重ねてあって、その成分で匂いを消したり、分解を早めたりしている。また数は少ないが、文字どうりの川屋(カワヤ、川の上の水洗式)も見かけた。山の民の知恵であろう。 余談であるが、一般のロッジの宿泊料は1室1泊Rs100程度であるらしい。パタゴニアでは結構なホテルが一人US$10程度で泊まれたので随分安いと思ったが、ここではその1/10以下という安さである。但し、素泊まりはダメで食事を注文のことと張り紙 がしてあった。食事は欧米並みの値段である。

ドゥードゥ・コシ川に掛かる最後の大きな吊り橋をこわごわと渡り、尾根の端を回り込んで水平なトラバース路になると、前方に馬蹄形の谷筋の斜面に張りついた白い石造りの大きな集落が目に飛び込んできた。ここがナムチェの集落で、シェルパ族の中心地であり、ヒマラヤ登山の黎明期から有名な所謂シェルパを沢山輩出した集落である。銀行、郵便局、映画館、インターネットカフェなどもあり、100軒ほどの戸数が密集している。特に狭いメインストリートには多くの土産物屋、レストラン、ロッジ、登山用具店や本屋が犇きあい、呼び込みの声も甲高い。 毎週土曜日にはバザールが開かれ、近隣の集落や、遠くはチベットからも買い物客や売り手が集まり、大層な人出となる。幸い、帰りにナムチェに宿泊した朝このバザールの光景を目にすることができた。山羊、水牛、ヤク、豚などの肉を筵に並べて売る人、雑穀を売る人、香辛料を売る家族、衣服や靴を地べたに並べている商人、オモチャや文具や日常雑貨を並べている夫婦、僅かな卵を金属の水差しに入れて客を待っている親子連れ等々、またそれを求める人たちで狭い道路は足の踏み場も無かった。ここまで歩いて出て来るには相当な日数を要しているのだろうが、皆野宿をしながら来たに違いない。

ナムチェで泊まったロッジのオヤジはロッジの1階で登山用具店も開いていて、如何にも古びたドイツ銘のピッケルを売っていた。オヤジの宣伝文句によると、このピッケルは50年前にヒラリーが使用したもので、日本に持ち帰れば100倍の値が出るという。ポカラにできた山岳博物館から譲ってくれと言ってきたが、値段が合わなかったから断ったとも言う(ホンマかいな?)。言い値はUS$300。秋田さんが興味を示して値切ったら200迄は下がった。秋田さんは100まで下がれば買うと言っていたが、そこまでは無理のようだった。小生も大いに食指が動いた。どうせ偽物には違い無く、ひょっとしてヒラリーに従ったシェルパかポーターが使った由緒ある品物かも知れないが、日本に持ち帰れば、誰も真相は分からないのだから、テンジン・ノルゲイが使用したピッケルだくらいの嘘なら通用するかもしれない。200でも余程買おうかと思ったが、古美術や
骨董には何の興味も示さないウチのバアサンが、「こんなガラクタ、一体どうするのヨッ! 残った者が処分するのに苦労するから、お迎えが来る前にさっさと捨てて来なさい!」と仰せられることは目に見えているので、涙を呑んで止めにした。

ナムチェではレストランで試みにヤクのステーキなるモノを喰ってみた。残念なことにミンチ肉になっていて美味くも珍しくもない代物であった。また、野口(和)さんが面白いものがあると本屋に案内してくれた。極彩色で印刷されたKama Sutraであった。発行はシンガポールで、各国語に翻訳されている。Kama Sutraはインドの秘典で、精神の悟りには肉体の往生が欠かせないと説く有り難い教典である。エスパニョルの勉強と称してスペイン語バージョンを購入。描かれている印度人男女の姿態と表情が実に素晴らしい一品であった。哲学と瞑想、恍惚と解脱。哲人のエロスは斯くやと思わせる。コレはもう芸術作品であるナ。「眠られぬ夜のために」蒲団に潜り込んでニヤニヤしながらしかも厳かに秘かに芸術を楽しむというのはどうじゃ。もうワクワクしてくるナア。宗教心皆無の我が家の赤鬼や青鬼の目に触れれば、没収された上に獄門磔の刑に処せられるのがオチであるから、机の引き出しの奥深く隠蔽しておいて、秘かに拝むこととイタそう。

トレッキングを終えてカトマンズに帰着した翌日、ガイドの案内で市内観光をした。最初に訪ねたのはパシュパティナート寺院であった。ネパール最大のヒンドゥー教聖地で、ガンジス河の上流パグマティ川が真ん中を流れている。大小の伽藍が林立し、祀神であるシヴァ神の男根がパールヴァティー妃神の女陰の上に配置された彫刻が祀ってある小さな石造の堂宇が数限り無く建っている。陰陽の彫刻は高度に象徴化されていて、さすがにヘンなことを想像する余地は無く、ヒンドゥー教の深遠な淵を観るばかりであった。

パクマティ川の岸には多くの露天火葬台が川の上に突き出していて、この日も3ツの火葬台から煙が上がり、真っ赤な炎も見えた。火葬台の形には上流側の四角形のものと下流側の丸いものがあり、四角は偉い人用、庶民には丸形を使うのだそうだ。さらに上流には王室専用があるという。火葬をしている直ぐ傍では猿の大群がお供え物を奪い合ったり、大勢の人々が沐浴をしていた。乞食が遺体の衣服を奪い合うともいう。お供えや遺灰が流れている茶色の川は聖なる川であり、ヒンドゥー教の人々はここで沐浴したり、食器を洗ったり、洗濯をする。ここはヒンドゥー教信者にとって有数の聖地でネパール各地からは勿論のこと、遠くインドからも巡礼者が訪れるという。中心部の本堂などにはヒンドゥー以外の人は入れない。伽藍は多くの人々で混雑していた。また土手の上では家族が集まって車座になり法要などをしていた。手や顔や足が半分溶けた乞食も道端に座って喜捨を受けていた。また上半身裸で特異な風貌をして歩き回っている行者も多い。これを団体で見に来た外国人観光客が珍しそうに眺めているが、ヒンドゥーの信者はこれらの観光客には全く関心が無いようであった。
このような光景はインドの写真集などで知ってはいたが、実際に火葬や沐浴の現場を見ると、やはりちょっとしたカルチャーショックであった。火葬の煙も異臭がしたように感じられた。

ちょっと重い心になって、次に連れて行かれたのはボーダナート寺院である。ネパール最大のチベット仏教寺院で、日本でも「目玉寺」として知られている。午後からは、ネパール第二の都市である古都・パタンを廻った。ネワール族の王によって2世紀に建設されたこの古都は15世紀頃には独立した王国として繁栄したそうだ。別名をラトプールというが、これは「美の都」という意味だそうだ。如何にも時代を感じさせる古びた多くの伽藍が街中に建てられており、柱や屋根を支える斜木には精巧な木彫の仏像が何千体も彫刻されている。狭い路地は地元の人々のお参りで混雑していた。 ここに限らず、ネパールの盛り場はどこでもそうであるが、人混みの匂い、ネパール人の身体から発生する匂い、山羊や羊を犠牲にした血の匂い、それを仏像に塗り付けた匂い、牛糞の匂い、人糞の匂い、香辛料?の匂い、家屋から匂い出る得体の知れない匂いなどなど、ちょっと我々が匂ったことが無いような匂いが漂っていて、やるせない。

これでもかこれでもかという数多の伽藍や仏像はもう見飽きたという頃、最後の観光地・旧王宮広場(ハヌマン・ドカ)に連れて行かれた。ハヌマンとは、猿猴のことで、旧王宮の入り口に犠牲の血か塗料かで真っ赤に塗られた猿神の像があることからそう呼ばれているそうだ。よくネパールの写真集などに載っている彩色豊かなカル・バイラブ像(シヴァ神の憤怒像)の前では地元の人であろうか、何人もの人が祈ったりお供えを捧げたりしていた。 また、広場には端正なガルーダ像もあった。どこの寺院や街角のゴンパでもそうであるが、奇妙な顔の怖い神様や怒った動物の顔をした神様と並んで端正な顔をした仏様が同居しているのがネパールの面白いところである。
この街角のどこかの寺院に有名な歓喜仏の像がある筈であるが、もう見疲れて探す気が失せた。クマリ(生き神)館にも入ってみたが、クマリだという普通の幼い少女がチラッと窓から顔を出してすぐに引っ込んだ。クマリとは、特定の高貴な家柄に生れた少女を生き神としてこの館で教育し、祭りなどの最高司祭として王家はじめ全国民から崇められる存在であるそうだが、所詮異教徒の私には木戸銭を取って見せる盛り場の見せ物小屋のようにしか感じられなかった。

やはり、平生見慣れていない異種の文化を雑踏の中を歩き回って一日中見ていると、精神的にもクタクタに草臥れてきた。やっとツアーから解放されてホテルに戻り、一風呂浴びてから現地ガイドとのお別れ夕食会をして、2週間の雲表の旅を終わったのであった。
帰国後、ガイドのディリップ・タパが来日し、拙宅にも泊まって行った際色々話しているうちに、来年秋には赤沢さん、古林さん、川崎さんとの4人でアイランドピークを案内して貰おうかということになった。ここは氷雪の高所登攀となるから、国内でのトレーニングも大変であるが、今から楽しみにしている。
企画してくれた小室さん、出発前の計画や現地との交渉から帰国後の後始末まで、誠にお疲れ様でした。多謝、多謝。
現地ガイドのディリップ・タパさん、ナバラジ・ポーデルさん、
マイカルさん、その他大勢のポーターやコックの方々、参加者の皆さん、ありがとうございました。Dhanyabad & Namaste!! 

 


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