ピッツベルニナ紀行

古林 宏

アルプスには4、000メートル以上の頂を持つ山群は4つあって、そのうちの3つの最高峰はすでに登っており、残りのベルニナアルプスの主峰ピッツベルニナには是非にと思っていた。まだあまり日本人には知られていないようで、参考になる資料も無く、ぶっつけ本番で行って見ようということにしたが、現地に着いてからガイド氏をキープするまでに時間を取られて、もう一箇所と考えていた登山スケジュールはここだけということになってしまった。それも天気の状況次第ではどこにも登れずに、すごすごと引き返すところであった。

ベルニナアルプスはスイスの南東部、オーストリアに近いイタリア国境にある。雄大な広がりをもつ山群のやや東寄りにピッツベルニナがあり、周辺の茶色い岩稜の3、000メートル級の山を足元にはべらせ、その上に白い肌を誇るかのような重量感のある山塊がどっしりと乗っかって周りを圧している。スイス側から見ると南八ヶ岳の配置とよく似ている。横岳のようなピッツパリュ―(3,905)を左に、赤岳の位置にあるピッツベルニナ、さらにその右に先の尖がった阿弥陀岳のようなピッツローゼック(3,937)。違いは4、000メートルということで、夏でも白い山群の真中からアイスクリームをこぼしたような青白い舌の先をサンモリッツの街に伸ばす氷河が立体を作る山と好対照に平面のコントラストをなしている。雪と岩のピッツベルニナはこれまでのアルプス山行の中で一番印象深い存在となった。

ノーマルルートは比較的穏やかなピッツパリュ―を通り、ピークを3つ縦走して、3、700メートル近くにある肩の小屋に出る、といってもそこから400メートル上が頂上だ。普通は翌日登頂を目指すのだが、今回はいきなり直登することになった。天気の状態が悪く、翌日は前線が通過という天気予報があって、下りのルートとなっているところを逆に登ってゆく。

ロープウェイの終点のホテルに前泊して、朝の5時、そこから200メートルを下って2、750メートルの氷河にまで降りる。そこから約1、300メートルの登り。ガイド氏とザイルを結び合って、氷河を渡った向い側の岩山に取り付いてロッククライミング。岩の合間を手で探ってホールドの良い岩角に安堵して体を預ける。アイゼンをつけての岩登りが終わると、長い雪の斜面を登る。傾斜のあるところでは薄い雪の下は青氷になっているが危険というほどではなく、アイゼンが良く噛んで気持ちがいい。サドル状の山あいにあるマルケローザ小屋まで5時間。小屋で一息入れて三角形のとんがりを目指してかなり急な雪面を登る。さらにアイゼンを脱いで岩登り。やっとの思いで辿り着いてピナクルに立つ。都合7時間余り。折角だからとゆっくりと寝そべって地球の大きさをいっぱいに吸い込んでから下りにかかる。上りのルートは雪の急斜面で下るには危険だからと幅50センチほどの稜線上を通る。まさしく剃刀エッジ。剥き出しの岩肌が両側に300メートから500メートル以上はあろうか、一気に切れ落ちている。ここはベルニナハイウェイ、ゴーゴーというガイドの声。何がハイウェイか、いや確かにHighな道には違いない。これを通らないと帰れない、かわいい孫の顔が見られないからと意を決して足を入れる。アイゼンを引っ掛けないようにと気をつけながら何を好んで山になんか登るのかと思う。苦しいことと危ないことばかりして、一瞬のピークに立ったあと直ぐに下山だ。達成感といえば聞こえがいいが、珍しいもの見たさの単純な好奇心だけなのかも知れない。

 肩の小屋に泊まって、夜半から予報どおりの吹雪。時折、平地で聞く雷音を1オクターブ上げたような轟音とともに、頭の上にある小さな窓からパッと青い閃光が部屋中に広がる。朝は動きようがないので8時近くまで毛布をかぶっていたが、やや落ち着いたのを見計らってそそくさと下山に取りかかる。次の雷雨がくる前にということで、超特急で同じルートを逃げるように下ることになった。さすが地元のガイド氏、ホワイトアウトの中を何の迷いもなくぐんぐんと降りてゆく。霰のような雪と風にたたかれ、雪で冷たくなった岩をつかむ指の感覚が無い。谷に切れ落ちる斜面についた細い棚状の道を壁に両手をついてカニの横這い、トップロープの状態で岩壁を蹴っての足場探し。足を踏み外して2〜3メートル下の岩棚下に墜落。ヘルメットを壁にぶつけて足が空を切る。下を見ると千尋の谷。ロープを伝って、四つん這いになって雪の斜面をアイスクライミング。氷河のクラックに足を突っ込んだりなどなど、何でもありの山行ではあった。命がいくつあっても足りないようだ。 1時少し前にロープウェイ駅に着く。約4時間余、最後の200メートルの上り返しがきつかった。ビールで乾杯していると、ガガ−ンと一発あたりをつんざく稲妻と轟音が谷間を埋めた。(山行年:2001年)

 


海外登山紀行目次へ

TOPへ