情報の海に漂えば・・・
 
 欲しい情報が瞬時に手に入る便利な世の中になった。例えば、山行計画の作成一つをとってみても、インターネットで検索すればその山の情報がゴマンと出て来る。また、本屋に行けばガイドブックが山のように並んでいるし、山岳雑誌にも痒いところに手が届くようなルート解説が満載である。例えば、時間ができたので明日からちょっと穂高の壁でも齧ってくるかという時にパソコンを叩けば、つい2、3日前にその壁を登った記録と写真が生々しく飛び出してくるのだ。実に便利なものである。登るルートの情報や所要時間から、ひいてはアプローチの交通情報、山小屋や幕営地の様子まで一目瞭然で、それらの記録をなぞっていけばたちまちの内に登山計画書も叩き出せるという訳である。
 仮に、北穂高岳滝谷のドームを登る計画を立てるとしよう。「滝谷ドーム」で検索すれば、登攀記録がゴマンと出てくる。「行ってきました・・・」程度のシロモノも多いが、中には詳細なトポやルートの詳細な写真、支点の設置状況や残置スリングの大写しまで、また登っているクライマーの動きまで分かるような生々しい登攀写真まで併載された詳細な解説付きの記録も沢山ある。これらを眺めていると、いつの間にか自分が登ってきたような気持ちになり、いつの間にか登山計画も出来上がって、パソコンを閉じた時には登山計画書がプリントアウトされているという誠にありがたい寸法となる。
 ところが・・?である。何かが足らないというか、どこかが満足されないというか、どうも作った山行計画書がフワフワとしているというか、もっと突き詰めれば山行自体が自分のものではないというか、そのような実に落ち着かない気がしてくるのである。皆さんもそのような経験がおありではなかろうか。しかも・・である。このようにして作った計画を基にして実際に山行してみると、コースにしろ登攀ルートにしろ、また行程にしろ、山行計画と寸分違わないように行動しないと落ち着かないという気分になってくる。クライミングでは、ホールドの取り方ひとつにしても、パソコンで検索したお手本記録と同じホールドを辿らなければ本物ではないという気分にもなる。このようなことが、所謂「カタログ登山」という世間の風潮を増進させる悪弊にもなっているといえるかもしれない。即ち、登山カタログを開いて、そのカタログの最初から最後までカタログどおりの同じ山を同じ行動でこなしていかないと落ち着かないという没個性症候群に陥るという塩梅である。
 更にイケナイのが、その先に進めばどのような光景が広がっているのか、頂上からは何が見えるのかなどが行く前から分かってしまっていることである。今更探検という程でもないが、あの山を越すとその向こうには何が見えるのであろうかというワクワク感が登山の楽しみの大きな要素のひとつでもあろう。しかし、このような登山スタイルでは、これらは単にパソコンで見た風景の追体験をしているだけのことに終わってしまう。自分が行けない山を他人の写真や紀行で楽しむのは、これはこれで結構なことである。しかしこれらはあくまでも他人が経験した世界であって、自分が自分で見る(行う)世界では、やはり自分の手で調べて計画し、自分の足で歩くことが本来であろう。
 現在は欲しい情報が欲しい解の形でそのまま手に入る時代になった。即ち、解を求めるために方程式を解く手間が要らない。実は、この「手間」こそが生きざまを深める大切な過程であるのだが、一歩筏に乗ってしまえば自分で漕いだり星を見て舳先を合わせたりしなくても、情報の流れに身を任すだけで目標の島まで到達できるのだ。便利と言えば便利だが、何とも侘しいことではある。パソコンもスマホも無い世界に行ってしまいたいと思うのも無理からぬことであろう。   (お)

 



      円居のひろば目次へ     トップへ