景鶴山(2004m)雑話
赤澤東洋
 
 5月初め、宿題だった山・景鶴山に登ってきた。この山を登山の対象として意識したのは、都岳連個人会員時代の2004年3月、参加17名にて谷川岳・天神尾根で雪上訓練があり、同行のIさんからトマの耳山頂から望む燧岳の左にチョコッと顔を出す鋭三角形のピラミッドこそ景鶴山で、5月に山行計画のある事を聞かされた。前年死亡事故があったが、天気さえ良ければ危険はなくいい山ですとおっしゃる。只、残念ながらその年5月はヒマラヤ行が決まっていた為参加出来ず<来年お願いします>と云っておいたのだが、その後Iさんが個人会員を辞めてしまい、以来ずっと行きそびれていたという訳である。
* 今回の山行詳細・コースタイム等は別項「残雪の景鶴山」をご参照下さい。

ところで今年のGW中10日間程の間に、期せずして会のメンバーに因る4隊が景鶴山から平ヶ岳にかけての尾瀬に集中した。別に示し合せての事でなく、まったく偶然なのだが、植生保護の為、無雪期は入山禁止、残雪期しか登れないというこの山域なればこその特殊性はあるにしろ、4隊も集まるのはかなり珍しい事に違いない。
* 参考までに各隊の辿ったコースとコースタイムを以下ご紹介します。

A隊 日程: 4月26(土)~27(日)    人数:5名
  1日目 鳩待峠―山の鼻―竜宮十字路 竜宮小屋泊   2時間40分
2日目 竜宮小屋―ヨッピ橋―景鶴山―山の鼻―鳩待峠 10時間40分
B隊 日程: 4月26(土)~28(月)    人数:4名
  1日目 鳩待峠―山の鼻―ススガ峰下 幕営 6時間40分
2日目 ススガ峰下―白沢山―平ヶ岳 往復 8時間
3日目 ススガ峰下―山の鼻―鳩待峠 4時間15分
C隊 日程: 5月6(火)~8(木)     人数:2名
  1日目 鳩待峠―山の鼻―見晴十字路 燧小屋泊
2日目 見晴十字路―景鶴山―平ヶ岳 往復 13時間
3日目 見晴十字路―(長沢道)―アヤメ平―鳩待峠
 
 尾瀬を世に最初に紹介したのは、「日本山岳会」の創設者の一人植物学者の武田久吉(1883~1972)が、「山岳」第1年第1号に発表した1905年(明治38)の紀行<初めて尾瀬を訪う」である事はよく知られている。当時、尾瀬に入るには日光から金精峠を越えていくしかなかったらしいのが、いかにも100年以上も前の昔を感じさせるが、その頃既に今の見晴十字路には小屋が三つ建てられていたという。もとよりそれは登山客相手のものではなく、岩魚釣り漁師の建てたお粗末な笹小屋だったのだが、これがその後何度も改築され今の檜枝岐小屋へと引き継がれていくのである。
 その頃の記録として小暮理太郎(1873~1944)の「利根川水源地の山々」を忘れてはならないだろう。群馬県生れの小暮は13歳の時に富士山に登り明治22年夏には尾瀬にも出掛けていて、尾瀬の最初の入山者として紹介される事も多い先駆者である。1920年(大正9)7月、小暮は山友の藤島敏男(1896~1976)と藤原で人夫3人を雇い、3日掛かりで幽ノ沢沿いにひどい藪潜りに悲鳴をあげながら上越国境の小沢山に達し、その後、稜線沿いに下津川山―本谷山―丹後山―平ヶ岳―白沢山へと縦走し、尾瀬の猫又川に抜けている。予定では大白沢山を経て景鶴山から尾瀬に入る計画だったが、白檜の森林に覆われた藪の深い様子に恐れをなし猫又川にエスケープしたと記している。案内人同伴とはいえ、人跡稀な山域への全行程9日間のこの記録は先駆的な仕事として特筆すべきものがあろう。
 他にも「日本山岳会」発起人の一人で「日本山嶽志」を編纂した高頭式(1877~1958)の紀行もあるらしいが、残念ながら未読の為紹介出来ない。
 武田の尾瀬再訪は、19年後1924年(大正13)の事で、この年、上越南線が沼田まで開通し、以後沼田が尾瀬の玄関口となった。その折の紀行が「山岳」第19年第1号に掲載された<尾瀬再探記>で、沼田から白沢村の高平まで自動車に乗り、ガタ馬車で栗生峠を越えて追貝に入り、その先からは徒歩で鎌田、戸倉、三平峠を経て尾瀬沼に至っている。燧岳、会津駒ヶ岳、至仏山等にも登り、武田はこの年以降毎年のように尾瀬を訪ねて深く尾瀬に係わるようになり、長蔵小屋の平野長英(1903~1988)には<私の恩人>と呼ばれるまでになっている。
 武田によれば景鶴山は地元では這摺山(ヘエズル山)と呼ばれていたもので、頂上に峙つ大磐石はヌウ岩と呼ばれヌウはニュウ・二オ(にほ)と同意語で刈った稲を円錐型に積む稲架を意味していると云う。

 鉄道開通により大正末期から昭和初期にかけ尾瀬の入山者も毎年数百人にも上る盛況となり、この頃の紀行文には優れたものが多く魅力的だ。東京大学の深田久弥(1903~1971)、早稲田の渡辺公平(1907~1979)、中央の川崎精雄(1907~2008)等で、皆さん本当にお上手だ。彼等はいずれも湯ノ小屋温泉から狩小屋沢を遡行し至仏山を経て尾瀬ヶ原に達している。特に渡辺は1928年(昭和3)7月に猫又川から藪を潜って白沢山から平ヶ岳の山頂を極めているが、根曲り竹、ハイマツ、石楠花等猛烈な藪との4日間の争闘記は興味深いものがある。同じ頃川崎も平ヶ岳や景鶴山紀行を発表しているが、こちらはいずれもスキーを使った残雪期のものである。
 少し話しが飛ぶが、私が最も触発された川崎精雄は2008年に101歳でお亡くなりになったが、95歳の時に友人が経営する八ヶ岳山麓の山宿に宿泊され、私が川崎さんの崇拝者であり座右にいつも川崎さんの著書を置き、その足跡を追ってきた事を知っていた友人が気を利かせて色紙を書いてもらってくれた。
     <白樺に 日はまともなり 牧の秋  精雄>
 俳句に疎い私にはこの句の出来不出来は分からないのだが、この色紙は今や我がお宝である。他に彼の句で好きなのに<岳凍てて シリウスの青 極まりぬ>というのがある。
 <平ヶ岳の戦後の無雪期初登頂はオレだ>と怪気炎吐くのは「西丸式やぶ歩きやぶ睨み」の西丸震哉(1923~2012)で、数多ある紀行文の中で異色の存在、まあ面白い。とにかく昭和23(1948)年と云えば戦後の混乱期、食糧難で皆が飢えていた時代に、不備の多い地形図を正すべく空っ腹抱えながら、未踏の岩壁や湖沼探しに夢中になって奥利根の山中をフラついていたという猛者で、カッパ山とか、岩塔ヶ原とか東白沢池とかの命名者、少しばかりエバられても仕方ないのである。農林省の官僚だが、昔は変わったお役人もいたもので、あの頃のお役所は結構懐が深かったものと思える。西丸が足繁く通っていた岩塔盆地一帯がそっくり入山禁止地域になったのは昭和40年頃のようである。昭和37年版「美しき尾瀬の旅」川崎隆章・山渓文庫では<尾瀬研究コース・景鶴山、猫川遡行外田代」として堂々とルート紹介されているが、昭和43年版ブルーガイド「尾瀬」西丸震哉著・実業の日本社ではもう入山禁止地域とされている。

 今年のGW中の尾瀬は天候に恵まれ私達を含め皆さんいい山行が出来たようで喜ばしい限りだったが、この時期天候急変及び雪渓踏み抜きには注意したい。本文冒頭に述べた死亡事故は2003年5月2日、私の知人パーテイが3人で東電小屋から尾根伝いに景鶴山に登り、山頂で出会った単独行者から上ヨサク沢は易しいし踏み跡あって大丈夫と云われ、下山の最短コースとばかり、アドバイス通りに沢筋を下り、1人がポッカリ空いた雪穴に落ちてしまったもので、水流に流された遺体が雪のトンネルから発見されたのは2日後、予備調査をしないまま未知の沢を下降した事を知人は悔やんでいた。
 とりとめもなく綴ってきた景鶴山にまつわる雑話、最後に尾瀬について書かれた数多の紀行文から、本文に関係する参考文献を紹介して終る事にしよう。

武田久吉「尾瀬と鬼怒沼」 日本山岳名著全集3 あかね書房
武田久吉「明治の山旅」 平凡社ライブラリー  
渡辺公平「平ガ岳紀行」 <忘れえぬ山Ⅲ> ちくま文庫
川崎隆章「郷愁の尾瀬他 <会津の山々・尾瀬> 修道社
川崎隆章「怪峯景鶴山」 <美しき尾瀬の旅> 山渓文庫
川崎精雄「雪山・藪山」 茗渓堂  
川崎精雄「山を見る日」 中公文庫  
小暮理太郎「山の憶い出」 日本山岳名著全集2 あかね書房
深田久弥「至仏山を越え尾瀬へ」 日本山岳名著全集8 あかね書房
西丸震哉「西丸式山遊記」 角川選書  
西丸震哉「山歩き山暮し」 中央公論社  
谷 有二「山名の不思議」 平凡社ライブラリー  
平野長英「尾瀬と共に60余年」 日本の名山③ 尾瀬 ぎょうせい

 

 
1653m峰への登り
 
  景鶴山頂上
 
 
景鶴山頂上より至仏山、手前が岩塔ケ原
 
  景鶴山頂上より遥かな平ケ岳
 
 
景鶴頂上のヌー岩
 
  見晴十字路より景鶴山
 
 
踏み板外されたヨッピ橋をヘッピリ腰で渡る
 
  燧よさらばまた来る日まで
 

 



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