『放浪哲学』 (中西大輔著)

 

 又もスゲエ奴が出てきた。なんとまあ11年かけて自転車で独り旅、世界の130ヵ国・15万`を回ってきたという。その走行距離は地球の赤道四周相当というから驚きで、訪問国数と走行距離は日本人最高記録なのだそうだ。
 著者は1970年生まれ、大学を卒業して6年間住宅メーカー勤めをして貯めた旅行資金は700万円。まずは3年半で60数カ国訪問を目標に1998年7月アラスカを目指したのだが、走り始めると面白くて止められず、次から次へと訪問先が増え、気がつけば世界中を放浪し、何と帰国したのは2009年9月、11年という長い長い旅となったのであった。
 その間、愛車はタイヤ82本、チェーン20本以上、パンク300回以上、その他駆動部品を何度も交換する等様々なトラブルにまみれたが、何とか乗り切っての壮挙であった。
 日本人でも自転車で世界一周を試みるサイクリストが少なからず存在する事は知っているが、さすがに11年間、15万`となると桁違いなようで、2010年の「植村直己冒険賞」受賞もむべなるかなというところだろう。
 何が彼をしてそこまで駆り立てたのか? 本人は「まだ見ぬ国々への強い憧れの念」それにつきるとおっしゃる。
 本書を読んで感心するのは、著者は旅先で歓迎され次々と友人を作り、その友人からさらに友達を紹介されという形で訪問先が増えていき、友人の輪が拡がって行く、その有り様が羨ましい。又、旅先ではインターネットカフェを利用し、世界中の友人にメール連絡し、現地で入手困難な自転車部品を送ってもらったり、病気の時も世界中の友人にアドバイスを貰ったりしている。PCに疎いロートルには、この辺が真似の出来ない悔しい所ではある。アメリカではカーター元大統領、ポーランドではワレサ元大統領等普通ならお目にかかることも出来ない世界の著名人にも出会い、御本人の人柄に因るものと思われるが、その辺は見習いたいものとしみじみと思ったものだ。
 そして、若さ。無謀とも云えるその行動には眩しさを感じるが、無事帰国した彼はこれからどうするのだろう。日本の社会ではドロップアウトした若者が40才を越えて条件の良い就職先を見つける事は至難の業であるに違いなく、いつか又自転車で世界に飛び出す機会を狙っているのだろうか。
 本書では自転車だけでなく、キリマンジャロ、アコンカグア、モンブラン等高峰への登山紀行も記されていてそのチャレンジ精神に拍手。本書を読み進める時、これら馴染みのある山名に出会えるのも好みがピッタリ合って嬉しい限りなのだった。
SBクリエィティブ(株) 2014年7月発行・1500円              (AKA)

 


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『ニッポンの山里』 (池内 紀著)


                 

 著者の本業はドイツ文学者であるが、文明批評などのエッセイストとしても知られている。その語り口は恬淡としているので読んだ時には余り残響がない。しかし、忘れた頃になってジワジワと心に沁み出してくるからタダモノではない。山関係の著作は殆ど出版されていないが、「山の本」や「山と渓谷」などに山のエッセーや書評が連載されているので、読まれた方も多いと思う。
 私はドイツ文学などという高尚なものには全く縁が無いが、辻まことの肖像を綴った同じ著者の『見知らぬオトカム』(1997年、みすず書房)を読んだり、雑誌に載った随筆や座談をめくったりしている内に著者の書いたものが何となく気に掛かるようになっていた。
 この本は、日本の山奥にひっそりと佇んでいる山里集落を、東は青森県西目屋村から西は愛媛県千町まで全国30ケ所を訪ね歩いた紀行文で、数年前に白山書房の「山の本」に連載されたものがこのたび一冊に纏められたものである。いずれの山里も、我々登山者には親しい山々のアプローチやドン詰まりにあるので、かって通った山里がどのように変わっているのかいないのかなど興味深く読めるが、著者がこれらの山里で立ち寄った鄙びた一膳飯屋のメニューには無い「ご当地名産○○和牛ステーキ」や「日本一の清流に育った天然鰻の蒲焼と鮎の塩焼き」の味などを期待してはいけない。この本に書かれている味は、お婆が洟を垂らしながら夜なべに漬け込んだ山菜の漬物やお爺が皺しわの手で打った粗末な掛け蕎麦の味であって、忘れた頃になってジワジワと心に沁み出してくるのである。
 何処の山里でも、かっては鉱山、材木、牛馬、山岳講などで賑わったであろうが今では鄙びてしまって、お役所は住民の流出防止と観光客の呼び込みのために「カルチャーセンター」やら「郷土伝統芸能館」やら「エコツアーセンター」やらのハコモノ作りに熱心ではあるが、急激に消え失せつつある山里共同体としての人々の繋がりや情念、風土と歳月に磨かれた山里の暮らしなどは役所の机の引出の中で忘れられた反古になっているらしい。「ステーキの味」に例えたのは前者、「お婆の漬物」は後者である。
 30箇所の中には、かって秘境と言われた長野県遠山郷、徳島県祖谷、山梨県奈良田などの伝統的な秘境の過去と現在の姿の描写もあり、また一方では、きだみのるの「気違い部落」の舞台にもなった東京都八王子市の恩方という“都会”も登場する。ここは高尾山、陣馬山や景信山の近くであるので或いは行かれた方もあろう。かって維新の元勲と言われた山縣有朋や大山巌などの貴紳達が原野を開拓して広大な農場を開いた那須塩原の夢の跡や、宮澤賢治や高村光太郎が移り住んだ岩手県の早池峰山麓も登場する。
 著者の手になる挿画も楽しく、ほのぼのとした想像が広がる。山里の風景写真も挿入されていて日本の原風景を彷彿とさせる。しかし、これらの山里に著者が溶け込んでこのエッセーを書いたことを強調したかったのか、或いは逆に山里の外から鳥瞰したこと強調したかったのか、いずれにしても風景写真の中に著者の姿が写し込まれているのは些か臥龍点曇であろう。
山と渓谷社2013年1月刊、1575円。              (アル酎はいま〜)

 


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『北の山河抄』 (新谷暁生(しんや あきお)著)

 

 あまり期待もせずに手にしたが、たちまち惹き込まれ一気に読了した。1947年札幌に生まれ根っからの北の男である著者は、中学生の時に登山を始め、地元北海道の雪山からヒマラヤ、国後、アリューシャン、パタゴニアまで山も海も含めた世界の辺境に挑む冒険家であり、普段はニセコで山小屋を経営する傍ら、冬はスキー場で雪崩事故防止に関わり、夏は知床半島でシーカヤックツアーのガイドをしているという。
 本書は40年に渡って世界の辺境で命を曝して数々の挑戦を重ねてきた著者が、苛酷な現場で育んだ貴重な体験を山岳雑誌「岳人」に2011年1月から2013年5月まで計29回に渡って発表したものを纏めたものだ。
 ニセコスキー場では長く雪崩事故防止に関わり「人命の失われた雪崩の八割までは吹雪の間か、その直後に起きている。弱層テスト等に頼りすぎるな。事故に遭った人の殆どが雪崩講習会の受講者なのだ」という言葉の意味は重く傾聴に値する。それは誰よりも現場を知り長い経験に因って得た確信に裏打ちされた言葉であるからだ。
 中学生の時から夏は沢登りと藪漕ぎに明け暮れ、冬はアザラシのシールをつけて雪山を歩き回って登山を学んだ著者は、かなり無謀な山行を重ね何度も死にかけた事があるらしい。22歳の時、今は懐かしい横浜〜マルセイユ間の定期航路でネパールへ向かいヒマラヤ山麓を放浪、その後1985年、86年と2年連続でヒマラヤ・チャムラン峰(7319m)遠征、1991年5月の天山山脈・ボゴダ峰(5445m)では女性隊員がヒドンクレパスに落ち、狭くて深いクレパスからどうしても助け出せず目の前で亡くすという事故にもあい、1992年のカラコルム・ラカボシ峰(7788m)で敗退したのを最後に、以後山から海へとシーカヤックの世界に転進する。
 シーカヤックでは1992年、千島列島・国後島に渡り島の東海岸を漕ぎ爺爺岳(1822m)に登る。この時は1981年に8人が滑落死した中国のミニャコンガ遠征で、只一人生還した登山家の阿部幹雄が一緒だった。その後1986年冬には南米パタゴニアに渡り、世界初のカヤックによる冬のケープ・ホーン回航に成功、2000年から2009年までの9年間に5回アリューシャン列島に出かけ列島1周を試みている。今は5月から10月まで知床半島で半島一周のガイドをしているが、客の中には周囲の景色に一瞥もせずGPSばかりみている客がいて「一体何が楽しくて知床まで来てるのだ?」と呆れ、GPSには否定的だ。その気持ちよく分かります。
 簡潔で飾り気のない文章は荒削りで分かり易く、常に直球勝負・身体を張って生き抜いてきた著者の人柄が表れているように思う。
 平和だからこそカヤックも漕げる、山へも登れると語り、利益優先の観光業界への不満、ヒグマとの共存等自然保護問題、ガイドの有り様等問題提起は多岐に渡り、著者特有の語り口で提言する。拾い物の一冊で、山の関係者には是非お読み頂きたいと思う。啓発され学ぶ事は多いハズだ。
 「東京新聞社 2013年10月発行」   (AKA)

 


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『大河紀行 荒川』 (伊佐九三四カ 著)

 

 古今山の紀行文は数多とあるが、川の紀行文となるとこれはもう極端に少なく、寡聞にして川の紀行作として小生が知っているのはカヌーの野田知佑位なものである。それでも多摩川には辻まことや大内尚樹、遠藤甲太親子等の探険紀行があり、いずれも大変に面白かったものだが、荒川となるともう皆無に近いのは何故なのだろう。
 奥秩父甲武信岳を水源とし関東平野を貫いて東京湾に注ぐ荒川は、江戸時代には大川として江戸っ子の活に密着し、浅草生れの作家池波正太郎の作品にも頻繁に登場する東京を代表する川なのだが。
 本書は東京生まれで埼玉育ちの著者が多摩川や江戸川よりも身近な存在だった荒川を源流の真ノ沢から葛西臨海公園の東京湾河口まで踏査した荒川紀行だが、前述の多摩川紀行とはだいぶ趣が異なっている。前者が、いずれも河口から源流へと遡り未知への挑戦という探険目的の旅だったのに比して、本書は源流から河口へと歩いて下りながら、土地の古老を訪ね、流域の歴史や文化、民俗を探り、ひいては将来の首都機能に対し、これでいいのかと疑問を呈する荒川の貴重な紀行ルポであり荒川研究書である。
 この著者の「キリマンジャロの石」(平成七年 現代旅行研究所)はキリマンジャロ登山を目指した時に参考にさせてもらったものだが、最初、辺境の山旅の伊佐九三四カ氏と荒川がすぐに結びつかずオヤッと戸惑ってしまったが改めて略歴を拝見し納得できた。大学で史学を学び、藪山から雪山迄幅広く自然に親しみ、特に歴史と風土に根ざした人間の生活を求めて内外の山旅を続け、紀行を書かれているのだという。本書は正にその「足で書く仕事」を実践し四年半の歳月をかけて完成させたライフワークにふさわしい読み応え ある労作である。
 古くから「河を治める者、国を治める」と云われ、治水の成功こそ領国安定の基礎であり、暴れ川・荒川の治水事業は何時の時代も重要な課題だった。難工事に挑んだ江戸時代の関東郡代伊奈忠治や荒川放水路の責任者青山士の苦労は並大抵ではなかったに違いない。
 荒川は埼玉県に生まれ育った小生にとっても馴染み深い故郷の川で、地元中学校の校歌は「荒川の真澄のかがみ 遠長く 光れるかなた」と荒川を歌っているし、自宅から自転車でがたがた道を40分も走れば荒川で、本書にも紹介されている開平橋近くで水浴びした事もある。当時の開平橋は幅5b程の冠水を想定した欄干のない木橋であった。
 本書では旧三峰街道、手堀りトンネル、贄川宿、あるいは荒川の中間点にあったという幻の村新川等が紹介されているがいずれも興味深く、本書片手にあちこちと1度は訪ねてみたいと思ったものだ。荒川で鵜飼い漁が行われていたというのも嬉しい驚きだったし、源流の真ノ沢遡行も面白そうだ。
 本書を纏めるには四年半の歳月を要したという。強い意志と情熱を持続し、地道な作業を黙々とやり遂げた著者は今八十歳、今年は「雲南国境の旅」を纏めるのだそうな。そのお元気さはどこから来るのだろう。凡人は只、
只脱帽するのみである。
 「白山書房 12年11月発行」   (AKA)

 


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『いのち五分五分
 息子・山野井泰史と向き合って』 (山野井孝有 著)


 

 本書はチョー・オユー(8201m)南西壁、K2(8611m)南南東リブ等で無酸素・単独初登頂の記録を打ち立て、世界最強のクライマーと呼ばれた男・山野井泰史の父孝有が息子泰史と向き合ってきた40数年間を振り返った記録である。当初は高名な息子の名を借りた際物の類ではないかと懸念したが、読み始めると面白くて一気に読んでしまった。危険を承知で勇んで山ヘ向かう息子、無事に帰るまで不安と心配でただ祈るだけの家族、そうした子を思う親の思いは胸にしみ、山野井夫妻の人となりもよく書き込まれていて興味深く読ませてもらった。
 1932年生まれの父は今年80歳、あとわずかだ。息子は登山を続け、父は老いていく。父と息子の残された人生の時間、つまりどちらが先に葬式をするかは「五分五分」だ。その比率は父の方が年々高まっていくが、父と息子がこれからどのような人生を歩むかも「五分五分」に違いない。本書のタイトルはそこからきているという。毎日新聞社に勤め、長くマスコミの世界に身を置いていた父の人生哲学は明瞭で、その思考は揺るぎない。文章は平易で読み易く、父の目から見た山野井泰史像に触れ、改めて彼の偉大さを再認識した。この父にしてこの子ありとしみじみ思う。
 山野井泰史が登山界で一目おかれているのはその無欲さにある。登山用品店が用具の提供を申し入れると、決して必要以上の物は要求しないという。中には沢山もらって、それを後輩や仲間に転売する登山家が少なくない中、山野井はまだ使えますからと断り「企業から支援を受けない」「資金は自分で稼ぐ」をモットーとしてきたが、2007年、K2に挑んだ時は、仲間や親の支援を受けた。パキスタン政府へ納める入山料が自己資金では賄いきれなかったからだ。そして頂上で思う。「自分の身体(無酸素・単独)と、自己資金で登山するという考えをずっと貫いてきたが、今回は山仲間、父の友人・知人から支援カンパを受けた。高い入山料を支払う為に仕方なかったが、皆のカンパは激励であり、自分には大きな力を与えてくれた。皆からの手紙には<無理しないで無事帰国を>と書かれていた。スポンサーの<是非頂上に立って素晴らしい写真を>とは違いがある。従って頂上の写真には日の丸もスポンサーの旗もない。これは大きな違いだ」
 9歳年上の妻・妙子も凄い。「生活出来て、山へ行けるお金があればそれ以上必要ない」と泰史がクマに襲われて入院した時には、知人から頂いたお見舞い金も一部を寄付してしまった位にお金に頓着しない。手足の指の殆どを失った妙子はタンスの引き出しも缶コーヒーも開けられないし、落ちた10円玉も拾えないような有様だったが、今では暇さえあれば野菜作りに勤しみ、料理も布団の綿の打ち直しまで全部一人でやってしまう。費用を考えたら新しい布団を買った方が安上がりかもしれないが、もったいないという。「無欲の登山家」山野井泰史は又とない良きパートナーを得たものといえる。彼はソロクライマーとして知られているが、いわゆる新田次郎の描く加藤文太郎のような社交性のない偏屈な単独行者ではなく、沢山の良き仲間を持ち、皆に愛されている。そこが又彼の素晴らしいところであり、皆に一目おかれているところでもある。
今後のさらなる活躍に期待し、心から応援したくなった。
 「山と渓谷社  2011年7月発行」   (AKA)

 


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『戦禍のアフガニスタンを犬と歩く』(R.スチュワート著)


                 

 この欄ではAKA会員により秘境の歴史書や探検記がよく紹介されている。秘境探検記ではないが、ひとつ追加させて頂きたい。
 アメリカなどの空爆によりタリバン政権が崩壊して10年、アフガニスタンではいまだに内戦の混乱が続きテロと治安悪化が益々増えていることは新聞報道でもご承知のとうりであろう。
 この本は、タリバン政権が崩壊した直後の戦禍の中をアフガニスタン西部のヘラートから東部の首都カブールまで全て徒歩で5週間かけて横断した紀行である。著者は崩壊後のイラクで復興支援に携わった後、アフガンの復興支援にも取り組んだイギリスの元外交官であり、このアフガニスタン徒歩横断の前にはイランからパキスタン・インドを経由して、ネパールまで1万キロに及ぶ辺境を16ケ月かけて徒歩踏破している。
 今回のルートは途中のバーミヤンを除き、世界から忘れ去られたような山奥に点在する辺境を繋ぎながら、列強の翻弄・攻撃によって荒れ果てたコミュニティーや人心、ムスリムの宗教観や異宗派・異部族との確執や相互虐殺、それでも戦禍で荒廃した辺境に暮らさざるを得ない人々の苦しみと諦念、その結果がもたらす暴力的・虐殺的志向など、それぞれの集落で聞いた直話が淡々と語られている。この国は、ずっと以前からイラン/パキスタンという強国に挟まれ、またイスラム教世界とキリスト教世界にも挟まれ、スンニ派とシーア派が対立を繰り返し、裏ではこれらを利用してきた東西2陣営の謀略に引き裂かれてきた悲しい歴史がある。
 アフガニスタンなど中東の国々は我々からは地域的にも精神的にも遠い国であり、またイスラームという宗教上の壁もあって、なかなか理解できない国柄であるが、この本を読み進むうちに世界にはこのような考え方をする人種もあったのかと多少は「分かった気」になってくるから妙なものだ。電気も無く、テレビも無く、住んでいる地域からは出たことも無く、通用する唯一のブランドはイスラム教とカラシニコフ銃という環境の中で、中世からの伝統に新しい国際的政治イデオロギーが横槍を刺し、大昔からの父祖の地が安住の地ではなくなった人々が、たとえ過激派の危険思想の洗脳を受けた結果だとしても、「聖戦」の名の基に西欧でテロを起こすことも不思議なことではないような気がしてくる。
 著者は、アフガニスタンの荒涼たる礫砂漠や深い溪谷の崖路、4000mを超える厳寒の雪の山などを毎日40km、35日間一日も休まず歩き続けた。−30℃という寒さの中で凍った川を踏み破ってズブ濡れになったり、雪の山で凍死寸前になったり、ひどい下痢と脱水症状で死にかけたり、足元で地雷が爆発したり、タリバンに後ろから撃たれて殺されかけたりした。私も辺境ファンではあるが、著者の足元には逆立ちしても及ばない。目糞・鼻糞を貰って煎じて飲みたいくらいである。
 著者の風貌からは、とてもこのような重労働に堪える体ではないように見えるが、何がこのように過酷でリスキーな辺境徒歩旅行に駆り立てたのか、それはこの本を読んでからのお楽しみに。
 「高月園子訳、白水社2010年4月刊、本体2800円」   (アル酎はいま〜)

 


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『山岳気象大全』(猪熊隆之著)


                 

 近年、天候の悪化が誘因の“山岳気象遭難”が増加していると言われている。山の気象に関する知識は、遭難を防止するための不可欠の装備と言っても過言ではあるまい。山の天気の本は観天望気をはじめゴマンと出版されているが、最新の気象学の知見に基づいた山の気象が具体的に記述されているものは少ない。NHKのお天気キャスターで有名であった村山貢司氏の「山岳気象入門」(2006年、山と渓谷社刊)くらいなものではなかろうか。
 今回は最近刊行された猪熊隆之著「山岳気象大全」を紹介したい。
著者は山岳気象に深い造詣を持つ気象予報士で、国内のみならず海外の山の天気予報でも評価が高い。著者自身が国内のみならず海外登山にも豊富な経験を持つクライマーであるから、山の気象に関する記述には説得性がある。また、従来のこの種の本には無かった高層天気図の利用方法、気象衛星画像の見方なども詳述されている。特に山の天気予報には欠かせない高層気象の解説は貴重であろう。取り上げられている山岳は北海道から九州まで地域別に全国がカバーされている。また、シーズン別の天候の移り変わりやその特徴についても詳述されている。何故天気が変わるのかなどの気象の本質についても、多くの図版を使って分かりやすく解説されているので、気象の素人にも読みやすい。
概要ではあるが海外の山岳気象の特徴もヒマラヤ、アルプス、アンデス他などが記載されているので、海外登山に行かれる方は出発前に目を通しておかれると参考になろう。
ただ、日本の全ての地域のローカル気象に精通している気象予報士はいないので、実際の山行に当たっては、その地域の地方気象台の予報官が発表する気象情報や天気予報と併用されることが望ましい。
山と渓谷社、2011年6月刊、本体2,200円   (アル酎はいま〜)

 


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『奇跡の6日間』(アーロン・ラルストン著)

世の中には凄いヤツがいるものだが、アーロン・ラルストンも又とんでもなく凄いヤツである。
 27歳、冒険好きのアーロンはユタ州のブルージョン・キャニオンに単独で峡谷探査に挑戦中、誤って大岩に腕を挟まれ谷底で一歩も動けなくなってしまう。何とか脱出せんと手元のカラビナとテープシュリンゲを駆使し、それまで何度も受けてきた救援訓練を思い出し、持てる知恵と経験を総動員して脱出を試みるのだが、大岩はビクともしない。たちまち襲う飢えと渇き、極限状態の中、自分の小便を飲みながらも何とか5日間耐え抜いたものの、絶望の底で遂にアーロンは<決断>する。
 ひたひたと迫ってくる終焉の時を、なすすべもなく、ただ待っているのは、もうたまらない。行動に移り、死の危険に立ち向かう道を、僕は選ぶ。救助隊の来る可能性0%、こんな辺境に来る者は期待出来ない以上救出を待っている事は出来ない。「オレは生きたい、生きるぞ、その為にはもうこれしかないのだ」と<決断>したのが、自ら右腕を切断する事だった。確かにそれ以外に残された道はなかっただろう。
利き腕を挟まれてしまい、慣れない左手でノコギリで挽くようにナイフの刃を下の方に引きながら、手首から10センチほどのところに大きな穴をうがつ....................

これは2003年4月に起きた実話であり、生還したアーロンは一躍アメリカのヒーローとなった。勇敢、勇気、タフガイ、ヒーロー、戦士、国民的英雄、クール、バッドアス(凄いヤツ)などと、最高級の賛辞で迎えられたという。絶望的な状況の中でも、決してあきらめないという若者の中に、アメリカのフロンティア精神が重ね合わされ、感動を呼んだのに違いない。
そして遂にこれが映画となった。題名は「127時間」。私は早速観に行った。これが又
良かったのだ。アーロンを演じたジェームズ・フランコという役者が実にいい。アカデミー賞の主演男優賞にもノミネートされたというのだが、明るいキャラクターが何とも爽やかだった。
 事故に遭う前、途中峡谷の入口で知りあった若い女性2人ミーガンとクリスティとの交遊もバックに流れる軽快な音楽に乗って、リズミカルで羨ましいほどに魅力的だ。
 カラビナやシュリンゲを使った脱出法もクライミングを囓る身には大変興味深いものがあり、復習しなければと思ったものだ。
 <観てから読むか>あるいは<読んでから観るか>、これは原作と映画を語る時、いつも話題になるが、この作品は断然<観てから読むべし>かと思う。
 お薦めです。

小学館(2005.6発行)      (AKA)

 


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『空白の5マイル』(角幡唯介著)


                 

深田久弥は「日本百名山」を上梓した後、急速にヒマラヤとシルクロードにその関心を傾け、厖大な資料を集め、次々と著作を発表していった。その資料探索は凄まじいもので、ヒマラヤと中央アジアに関する限り、一切を投げ打って追求の手を緩めなかったと評論家の近藤信行氏は回顧している。茅ヶ岳で急逝した後、間もなくして昭和49年朝日新聞社から刊行された「深田久弥・山の文学全集・全12巻」は、ヒマラヤの高峰やシルクロードについて調べたい時は真っ先に手にするわが愛読書だ。中でも第11巻「中央アジア探険史」は、アレキサンダー大王から始まって、三蔵法師玄奘、マルコポーロ、ヘディン、大谷探検隊等中央アジアの探険家達の人物群像を探る際の、わが手引き書として重宝している。  誰もが知る著名な彼等の中で異色な存在なのは、インド人のキンタップだ。彼は読み書きも出来ない無学な現地人であったが、驚くほどに記憶力が良く、彼が記憶を辿りながら語ったものを纏めた地図は、その後綿密な調査の結果まったく正確であった事が証明され識者を驚かせたという。聖地カイラスを源とするツァンポ川はチベット高原を西から東に流れた後、ヒマラヤ山脈の東端に位置するナムチャバルワ(7782m)とギャラペリ(7294m)という高峰に挟まれた峡谷部で逆U字型に大きく円弧を描き、その流れを南に旋回させてヒマラヤを横断し、今度はブラマプトラ川となり西へ流れベンガル湾に注いでいる。
 このツァンポ川とブラマプトラ川が同一の川であるかどうかは、長い間疑問とされてきたが、それを同一であると証明したのがキンタップだった。彼はツァンボ川の上流から500本の丸太を投げ入れ、アッサムまで流れるかどうかという大仕事をし、己の役目を果たした後4年の歳月を経て出発地のダージリンに帰り着くのだが、その波瀾に飛んだ冒険談はまるで映画や小説の世界のように面白い。只、深田はその後の事は何も語っておらず、私は寡聞にしてこの件はもうこれでお仕舞いになっていたものと思っていたのだが、実はその続きが今世紀まで持ち越されていたのだ。20世紀に入りキンタップの報告した巨大な幻の滝を求めて、多くの探険家がツァンボ川の深い峡谷に挑んだものの、大岩壁に阻まれまだ誰も踏破した者がなく、空白の5マイルとして謎が残されたままになっていたという。早稲田大学の探検部に属していた著者は我こそ、空白の5マイルを明らかにせんと学生時代の偵察行を含め、三度挑戦し遂に誰も成し遂げられなかった偉業に成功する。濃密な藪に阻まれ,ヒルやダニ等の毒虫に全身をやられ、急峻な崖を何度も懸垂下降し、滑落したり寒波に見舞われたりと遭難直前にまで至りながら単独で挑むその執念はどこから生まれるのだろう。勤務先の朝日新聞社を退職してまでどうしてそこまでやるのか?凡人はただあきれかえるだけだが、己の夢と探検心に充ちたこういう青年の存在は嬉しい。日本文化は英国等欧米に比べて若者の探険や冒険に対して冷たいと言われているが、未知の土地に挑戦するその勇敢さに拍手を送りたい。それにしても早稲田の探検部はスゴイ。船戸与一、西木正明、高野秀之と蒼々たる先輩達に続き此処にまたスゴイヤツが出てきたものだ。
副題:チベット、世界最大のツアンボー峡谷に挑む  集英社(2010.10発行) (赤澤)

 


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『間宮林蔵・探検家一代』(高橋大輔著)、中公新書


                 

 イギリスやロシアの探検家に先駆けて、サハリン(樺太)が島である事 を突き止めた日本人、北方探検家の間宮林蔵はもっと見直されていい。  オランダに帰国したシーボルトによってヨーロッパに紹介された林蔵の 地図は驚きをもって迎えられ、サハリンと大陸を隔てる海峡は敬意を込めて 間宮海峡と名付けられたという。  しかし今、間宮海峡という名は世界地図から消えかかり、林蔵の名も忘れ 去られようとしている。海峡発見から200年、著者は林蔵の足跡を辿り、 その業績を見つめ直そうと試みて単身厳寒の地に乗り込む。 林蔵の旅も筆舌に尽し難い困難極まるものだったが、高橋の旅もそれに劣らぬ 大変な旅となってしまうのだった。  厳寒のサハリンではホテルを締め出され、マイナス20数度の屋外でブル ブル震えながら夜明かしするハメとなり、シベリアではエンジントラブル やら、ガソリン切れやらでアムール川を漂流するハメになったりと、散々な 目に会うのだが、著者は挫けない。ここで諦めては男がすたるとばかりに 頑張って林蔵の偉業に近づこうと頑張るのだ。 本書が類似の間宮林蔵物に比べて面白いのは、著者が現役の探検家でもあり 己を納得させる為に、忠実に林蔵の足跡を自分自身で辿り、その困難を身を もって体験し、その体験をふまえて林蔵の実像に迫っているところだろう。  <どうしてそんなにしてまでやるの?>と凡人は思ってしまうのだが、一冊の 本を仕上げるには、その位の頑張りがないと本などまとめられないという事 なのかもしれない。根性が違うという事だろう。荒削りだが若手の行動派書き手 として今後も注目していきたいと思う。
中公新書、2008年11月刊、924円。 (赤澤)

 


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『森林はモリやハヤシではない〜私の森林論〜』(四手井綱英著)、ナカニシヤ出版


                 

 杉や檜の植林が多い山道は暗くて陰気で鳥や動物も居ないし、歩いていても一向に楽しくないという経験をされた方々も多いと思う。丹沢辺りの荒れた真っ暗な造林帯を夜間に下る時などは、何か異界に紛れ込んだようで幽霊出没の恐怖に心ノ臓も凍りつきそうになるのは私だけではあるまい。   本書は、チベットのナムナニ峰・日中合同登山隊の隊長も務めた登山家でもあり、「里山」の名付親でもある森林生態学者(京大名誉教授)が齢94歳にして、森林と人・雪・山などの関わりについてそれまでに発表してきた「雑文」から、一般読者にも分かり易いものを選んで奥様や弟子達が一冊に纏めたものである。森林や里山の効用・あり方・育て方、林業の実態と森林行政に関する問題点、自然保護と森林、森林崩壊と災害発生などが主な内容である。著者自身は「雑文」と言っているが、なかなかどうして薀蓄が深い。
 著者は研究室だけに籠もった学者ではなく、林業の現場経験に裏打ちされた知見であるから、私のような素人にも分かり易い。植林や皆伐採で破壊された森林の復旧には、人工造林ではなく自然に任せた天然更新がベストであるという考え方や、最近はイノシシやクマやシカが里に降りてきて獣による被害が続出しているのは、かつては人と獣が共存し、それより下には獣は現れなかった「里山」が人に見放されて荒れてきたことが主因であるという意見などにはナルホドと納得させられることが多い。 山なかま・シリウス会員には、森林関係のボランティアーや自然保護に関心が高い方々も多いと聞いている。登山に直接関係する本ではないが、著者の逝去(2009年11月末、享年97歳)を機に、ここに紹介する所以である。合掌。 ナカニシヤ出版、2006年刊、2000円。 (アル酎はいま〜)

 


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『荒野へ』 J.クラカワー著、佐宗鈴夫訳、集英社


                 

1992年4月、一人の有能な青年がアラスカの荒野へ分け入り、4ヶ月後死体となって発見された。なぜ彼は、アラスカの荒野で死ななければならなかったのか。若者の名はクリス・マッカンドレス。バージニア州の裕福な家庭で何不自由なく過ごし、優秀な成績で大学を卒業し、恵まれた環境に育ち将来を嘱望されていた青年が、ある日突然家族にも誰にも行き先を告げず全てを投げ打って旅に出る。乗っていた車を捨て、残っていたわずかな紙幣を火で燃やし、無一文となってヒッチハイクを始めたクリスは、アメリカ中を放浪した後、大地が与えてくれるものだけで生きていこうと、凍てつく北の大地へ足を踏み入れていく。わずかな米と1丁の銃を抱えただけで・・・・。
何故なのだ・・・? どうしてそこまで自分を追い詰めねばならないのだ・・・?
あたかも自殺願望者が富士の樹海へ彷徨いこむようにして、アラスカに流れていったわけではない。それはクリスにとって生きる為に必要な事だったのだ。この先何十年も生きて行かねばならない将来に希望を見いだす為、自分に正直に生きる為、選んだ道であり、まさか死ぬことになるなんていささかも考えた事はなかったのだが・・・・・・。
作者のジョン・クラカワーは登山家だが、ノンフィクションライターとしても名高く、
1996年のエベレスト国際登山隊の大量遭難(日本人・難波康子氏も含まれる)時に、現場に居合わせ、その時の記録を生々しくまとめた「空へ」という著書でもよく知られている。本書を執筆するに当たり著者は主人公クリスの足跡を根気よく辿り、時間をかけてクリスが出会った人々を探しだし、彼らから貴重な証言を得て、その生き様を通して青年の魅力を生き生きと描き出す事に成功させている。自らも若い頃、アラスカを放浪した経験のある著者のクリスへ寄せる眼差しはあくまでも温かい。
旅をする青年はいい。世界のあちこちでバックパック一つで、きままに一人旅を楽しんでいる若者に出会う。若い内にする冒険はその後の人生にプラスになる事はあっても、決してマイナスになる事はない筈だ。危険と隣り合わせの一人旅を通じて学ぶ事は多く、一回りも二回りも大きく成長するに違いない。若者よ、独り旅に出でよ!! 
原作は昨年映画化され、ハリウッドきっての性格俳優ショーン・ペンが監督した「イントゥ・ザ・ワイルド」は好評だった。「ミスティック・リバー」で2003年アカデミー主演男優賞を受賞した実力派俳優ショーン・ペンは監督としても非凡なものである事を証明したと言える。クリスの行動は凡人には理解し難いものがあるが、観客はその美しい映像に目を惹きつけられるだろう。映画もお勧めです。 集英社、2000円    (赤鬼)

 


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ANNAPURNA  (MAURICE HERZOG)

                

数年前、エベレスト初登頂50周年記念行事が地元ネパールはじめ世界各地で行われ、また初登頂者であるヒラリーが昨年没して日本でも追悼行事などが催され、いまや山岳界ではヒマラヤ回顧が盛んである。近年の地球規模温暖化によるヒマラヤ氷河の崩壊危機にも関心が高い。
 古い本ではあるが、初期のヒマラヤ遠征がどのようなものであったか、「高所遠足」が主流の現今のヒマラヤ登山と比べるのも悪く無いであろう。
 ヒマラヤの登攀史を紐解くと、58年前ヒマラヤの8千m峰が史上初めて登頂され、所謂ヒマラヤン・オリンピック時代を迎えることとなった。1950年のことである。人類で最初に8千m峰の登頂に成功したのがフランス隊で、この本の著者モーリス・エルゾークはその隊長であった。初めて人類の登頂を許した8千m峰はヒマラヤ中部に聳えるアンナプルナT峰(8078m)である。因みに、これに先立つこと30年、国威をかけたイギリスは何回もエベレストに遠征隊を派遣していたが、成功したのはアンナプルナ初登頂に遅れること3年後のやっと1953年のことであった。アンアプルナを嚆矢として、その後の数年間にヒマラヤのジャイアント(所謂eight thousanders 14座)は次々に初登頂されていった。日本隊の壮挙、マナスル初登頂(8125m)も同じ頃のことであった。
 この日本隊のマナスル遠征成功は国を挙げての大ニュースになった。当時の新聞(スポンサーであった毎日新聞)を紐解いて見ると、第1面が全てこのニュースで埋められている。敗戦後の国威をかけた大イベントであったのであろう。当時私は確か中学生であった。村内の出来事しかニュースにならず、たとえアメリカの大統領が射殺されたとしても村外の出来事には全く関心を示さなかった郷里の草田舎でも、中学校の校長が朝礼でこの壮挙の話をして聞かせたことを覚えている。私の山への開眼の直接の動機は井上靖の『氷壁』であるが、このマナスルの話も幾ばくかは与っているであろう。勿論アンナプルナのことなぞは知る由もなかった。
 この本は、人類初の8千m峰の登頂に成功、激甚な凍傷を負いながらも生還した登攀の記録である。著者エルゾークは凍傷の治療のためパリの病院に戻って8回にわたって手術を受けた。その病院でフランス語で口述したものを英語に翻訳して出版されたのがこの本である。彼はその後、山に復帰すべくリハビリを重ねたが果たせず、政界に転身して国務大臣やシャモニー市長を務めた。従ってこの本は著名ではあるが、彼の山に対する遺言のようなものであろうか。後に近藤等の名訳「処女峰アンアプルナ」で日本でも有名になった。私も読んでみたが、日本の山でさえヒーヒー言っていたのであるから、このような凄まじいヒマラヤなどは夢のまた夢でイマイチ現実味が無かったが、いつかは海外の山にも登りたいものと憧れる気持ちもあった。
 先年、カトマンズの本屋の片隅で偶々この本を見つけた。定価£10.00の本を僅か400ルピー(約600円)で売っていたので思わず買ってしまった。そのような訳で40年ぶりに読み直してみた。最初の出版は1951年であるが、このカトマンズで仕入れた本は10年ほど前の新訂版でジョー・シンプソンの序が付いている。
 新訂版にしてはこれがイギリスで出版された本であるのかと疑うような、印刷も紙質も極めてお粗末で、当然ながら挿入されている写真も古色蒼然たるものであるが、これがかえって半世紀前の本の風情を彷彿とさせる。凍傷で歩けなくなったエルゾークをシェルパが背負って搬出している写真も何葉か入っていて痛々しい。
 圧巻は第5キャンプから上の場面。ラシュナルと2人で世界初8,078m峰の登頂は果たしたが、帰途手足を猛烈な凍傷にやられ、おまけにクレバスに落ち込んだり雪崩に流されたりして死線を彷徨いながらも苦労して下山。エルゾーグは何度も死を覚悟したと記している。パーティーのメンバーやシェルパの献身的な介護も感動的である。ヒマラヤ8000m峰登山は、今でこそ酸素ボンベが日常的になり、装備やタクティックスも格段の進歩をしているが、50年前の粗末な装備でよくもこんな所を登ったものと感心させられる。
 凍傷の後遺症で山を諦めざるを得なかった著者は、終章の“There are Other Annapurnas”で本書を次の文章で締めくくっている。含蓄ある言葉ではないか。
“Annapurna,to which we had gone empty-handed,was a treasure on which we should live the rest of our days.With this realization we turn the page:a new life begins. There are other Annapurnas in the lives of men.”
 (アンアプルナ、何の報酬も求めず行ったアンアプルナこそ私達の生涯の残りを生きる宝である。これによって新しい人生の一頁が始まる。人間の生活には、ほかのアンナプルナもあろう)。 1997、Pimlico版。
  邦訳は近藤等訳『処女峰アンナプルナ〜最初の8千メートル峰登頂』
    (ヤマケイ・クラシックス)1890円、他。                    (酎)

 


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『技士道 十五ケ条ーものづくりを極める術ー』西堀栄三郎

              

 山に関する本ではないのでちょっと座り心地が悪いのではあるが、著者はかって日本山岳界をリードした一人であったことから敢えて掲載させて頂いた。西堀栄三郎といえば、「南極越冬記」で知られた初代南極観測越冬隊長であるが、山の世界でも今西錦司と共に京都大学の山と探検の基礎を築き、ヤルン・カン遠征隊長、チョモランマ登山隊総隊長も務めたアルピニストでもあった。京大理学部の学究であったが、理論研究よりも「理論を実践に応用して人類の福祉に役立てたい」と技術者への道を選び、東芝や原研、原子力船開発事業団に転進、日本企業の技術開発や生産管理の発展に尽力して、品質管理のノーベル賞と言われるデミング賞を受賞、原子力船「むつ」建造の立役者でもあった。
 本書は副題に「ものづくりを極める術」とあるように、著者の長年の経験を基に、モノを創り出す技術者の哲学と心構えを15ケ条に纏めたもので、「技術」の元になっている自然とは何か、「技術」の功罪やあるべき姿、創造性はどのようにして養われるのか、技術開発のための組織のあり方などを著者が組織したヒマラヤ遠征隊や南極越冬隊などの事例を引きつつ平易に述べたものである。品質管理などの専門分野も顔を出すが、一般の読者にもナルホド成程と納得させられる本である。著者は小さい頃から機械いじりが好きで、それが嵩じて「技術」の道に進むことになったと語っている。当時の登山の装備も全て自分達で研究・自作したという(当時は自作するしかなかったことも事実であるが・・・)。南極では、戸外のドラム缶から発電機へ供給する重油の輸送パイプを氷で作ったり、脱落した雪上車・車軸のナットを氷で作ったりしたそうだ。
 本屋の棚には各種ガイドブックやノウハウ本が所狭しと並び、登山用具店に行けば大枚を厭わなければ頭から足までピカピカのブランド装備で即いっぱしの登山者に変身できるし、実際の登山はツアー会社に申しめば即ち「登山サービス・オールインワンパック」一丁出来上がりという現今、山の研究にしても、装備にしても、パーティーの編成・行動にしても、登山とは何かという原点に立ち返って考えて見るのも悪くなかろう。本書はそのような機会を与えてくれるので、是非ご一読をオススメしたい。
   朝日文庫 2008年1月刊 本体640円       (アル酎はいま〜)

 


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『白夜の大岩壁に挑む』 ークライマー山野井夫妻ー
                            NHK取材班

            

9月17日の <奥多摩で登山家山野井泰史氏熊に襲われる>のニュースには驚いた。自宅近くをジョギング中に子連れの熊と鉢合わせとなり、右腕や顔を噛まれ鼻の縫合など90針も縫う大怪我だったという。山野井ファンとしてとりあえずは命に別状なしと聞いてホッとしたものだが、本人が顔の傷より今後のクライミングに関係する右腕の後遺症の方を気にしていると聞いて、いかにも彼らしいなあと思ったものだ。
 本書は2008年1月7日放送されたNHKスペシャル「夫婦で挑んだ白夜の大岩壁」をまとめた番組取材記である。北緯70度52分、白夜の北極圏グリーンランド東部の無人島にある標高差1300mの未踏の大岩壁に夫婦で挑み、見事に成功したその様子はテレビでも感動したものだが、本書の読後感も実に爽やかだ。執筆した桜井義久氏は番組の担当ディレクターとして長期に渡り夫妻に同行取材し、彼らの日常生活から緊迫したクライミングの場面に至るまで細部に渡ってその魅力をたっぷりと伝えてくれ、読み進むにつれこの二人は本当にお似合いのいい夫婦だなあという思いを強くしたのだった。
 現在の登山界にあって山野井夫婦が誰からも一目おかれる存在である事は万人の認める所ではないかと思う。2002年世界第15位の高峰ヒマラヤ・ギャチュンカン(7952m)下山中に雪崩に襲われ奇跡の生還を果たした山野井泰史は、凍傷により両手共薬指と小指が無く、右手の中指も欠けているだけでなく、右足は5本の指全て失っている。妻の妙子はもっと凄い。両手足合わせて18本の指を切断しており、握力を計ろうにも握れないので握力の計測は出来ない。そんな状況にありながら、商業主義を排したストイックなクライミング哲学を持続する、そのライフスタイルに深く感じるものがあるがゆえに一目おかれているのだ。
 彼らはスポンサーをつけ、マスコミに大々的に取り上げられる事を好まない。スポンサーやマスコミの制約を受け、お金と引き替えに、今の静かな暮らしが失われるのがイヤなのだという。スポンサー回りを厭わずマスコミを最大限に利用して派手なパーフォーマンスで話題をとる野口健とは対極にあるといえる。どちらがいいというのではないが、山屋の多くは山野井の生き方に拍手を送るのだ。
 彼の年収は、講演や雑誌の原稿料、本の印税等で300万円程度であるらしい。妻の妙子は家庭菜園を耕し、野菜類は殆ど自給し1ヶ月の食費は2人合わせても2万円足らずで済むという。妙子は言う。「山に行く事に関しては、お金をかけるけど、ほかの事はどうでもいいです」。上手なやり繰りで、月に10万円あればやっていけるので、海外遠征の貯金もそうして捻出している。お金、お金とガツガツしない、そのつつましさは胸をうち、自分も少しは見習わねばと痛切に思う。それにしても両手、両足満足に揃っていてもロクなクライミングが出来ない凡人たる我が身のなんとお粗末な事であることか。 尚、ギャチュンカン遭難の詳細については沢木耕太郎の「凍」(新潮社)を、チョー・オユー(8201m)南西壁、K2(8611m)南南東リブ等単独無酸素初登攀の記録を打ち立て世界最強のクライマーと呼ばれていた頃の山野井泰史については、丸山直樹の「ソロ」(山と渓谷社)を併読する事をお勧めしたい。
    日本放送出版協会   1600円  2008年1月刊         (赤鬼)

 


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「ひび割れた晩鐘」−山岳遭難・両足切断の危機を乗り越えて
             (亀山健太郎) 

            

 世に山岳事故を題材にしたものは数多い。それらの多くは海外遠征のものであったり、特殊な講習会のものだったりすることが多い。またそうでなくてもドキュメンタリーのような取材を中心にしたものが最近はシリーズで出ていたりする。この本はそれらとは違う光を山岳書棚の中で放っている。それは渋いが、非常に重みをもった光かもしれない。
 著者は丹沢源治郎沢F5にて墜落。会山行のサブリーダとしてトップを行っている時だった。原因は・・思い当たる節は特にないという。魔がさしたのかとも言っている。だがそこには「いつも行っていたリーダーとの登り方、みんなの行動方の確認」をしなかったこと、「引きずり込まれるように滝にとりついてしまった」という。
 事故や怪我はそんなときに起きることが多いのかもしれない。単調な道でふと、考え事がよぎる時、楽しい時・・。すぐ、隣に事故という魔物は透明人間のように座っている。夜を徹しての搬出。山岳事故において外傷を負った場合、恐るべしは感染症である。現在感染症の猶予時刻はことあるごとに質問をするのだが3時間とも、6時間とも医師によって答えが違う微妙な状況になっているようだ。部位など条件によるのだろうか。墜落から救命センターまでゆうに17時間。筆者の味わう苦痛はこの時間だけでなく、その後しつこい感染症との闘いそして両足を切断するかという状況のなかで一縷の望みをかけた「膝下に残った健康な脛骨を途中から一度切り離してその間を延ばしていく」イリザロフ法の施術の間もそしてその後のリハビリに至っても続いてゆく。
 その苦痛は読んでいて耐えがたくなってしまうほどだ。筆者の思いたるや想像を絶するのだが、その中で「書く」ということに自ら客観性を見出し、世に伝えるという使命を見出されたのだと思う。
 長い入院生活の中では、その観察力から医療チームとのコミュニケーションの重要性、はたまたベッド周辺の生活用具の評価、ありがたい見舞い品とはなにか?などなど、通常の山岳事故報告にはまったく書き表されない事柄がとてもスマートな文章で時にユーモアも忘れずに書き綴られており引き込まれる。そしてそれだけではなく最後には中高年への登山への警鐘もしっかりと書き記されている。
 私がとても印象にのこったのは、搬送時の苦痛だった。都岳連・遭難対策委員会では搬送時の苦痛を和らげるために衣類を足したり、保温のために掛けたりするがそれらの用意があまりなく、つらかったとのこと。講習会だけではとおりいっぺんになってしまう話が、このような実話を伺うとまたこれからの参考にもなるのである。
 読みやすい本ですので沢登りをされる方など多くなりつつある昨今、ご一読をお勧めします。なお、この場合の感染症は沢の水が原因だったということよりも、それほど長時間処置ができなかった状況が状況を重篤にさせた、と考えるべきだと思います。
      本の泉社 1429円                      (杉坂 千賀子)

 


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「クライマーズ・ハイ」(横山 秀夫著)

                

毎年旧盆のこの時季になると、御巣鷹山の慰霊登山がニュースになり、この映画化は時期を得たものと思われる。7月初旬に上映された「クライマーズ・ハイ」(原田真人監督)は日経新聞で評価三ツ星と高くはなかったが、原作のサスペンスは、なかなか読み応えのあるものに思えた。                            
 1985年8月 日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落した。520名の命が奪われた世界最悪の航空機事故となった。ストーリーは大惨事の報道でゆれる地元新聞社の赤裸々な社内組織上の人間関係の相克、編集局の嵐の日々を縦糸にして、17年後、主人公と亡き同僚の息子と谷川岳、衝立岩に登る現在の姿が横糸になって話が進展していく。家庭内の親子関係を17年の歳月を挟みながら主人公の内面をも活写していく。
 “クライマーズ・ハイ”とは、危険な登山で興奮のあまり恐怖心が麻痺してしまうこと。登山が隠し味になっているが、事故の報道で気持ちが高ぶる記者の心理を言い当てている題名となっている。この現象は、私はややもすると中高年の登山者にもありはしないかと危惧するものである。それよりは自信過剰(いつまでも若いつもりで)で、判断が甘くなることが事故多発につながっているのかと気を引き締めたりもする。
 “下るために山に登る”という謎めいた言葉にも、ひっかかるものがあった。いったい人はどう生きるのか、そんなことを思わせるのだ。これからの人生を登山にたとえると(思いたくもないが)、下山にかかっている人間にとって、どう下って行くかが問題だ。各自各様に登山スタイルがあるように、下山スタイルはどんなものか。私はゆるりゆるりと下って行きたいものだと思う。「老人と海」(ヘミングウエー著)の老漁夫サンチャゴのように、年老いても大自然と闘って屈服しない勇気と忍耐力を持ちうることを示すのは、格好いいことではあるが。
 主人公は大惨事の報道と対比して、『大きい命と小さい命、重い命と軽い命』という投書の掲載に職を賭して己を賭けていく。著者はジャーナリズムとは何か、真のスクープとは何か、人は何をよすがに生きるのか、ということを読者に問うている社会派の書き手であると思った。
                文春文庫  定価629円+税          (坂井康悦)

 


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「秘境西域八年の潜行」(西川一三)

                

チベットの東南部は中国が厳重な入域規制を行っているので入り難い地域であるが、カンリガルポやニンチェンタングラシャン山群など未踏の6千メートル峰がゴロゴロしていて、現在でも秘境の名に相応しいそうだ。(この間の事情については、この「図書紹介」欄掲載の『チベットのアルプアス』や『ヒマラヤの東』に詳しい)。しかし、北京五輪開催を期に中国のチベット政策が国際的非難を受けている現在、多かれ少なかれ中国もこの地域を解放せざるを得ないだろうから、この地域の禁断の山々が遠くない将来に解放されることを期待したい。そのような意味から、多少古い本であるが1冊を紹介したい。

日本人によるチベット紀行は河口慧海、多田等観、青木文教などがよく知られているが、これらはいずれも戦前のことで、また、その目的も仏教の研究が主であった。戦後初めて入蔵したのは本書の著者・西川一三であり、その当初の目的は第二次世界大戦末期の西北支那情勢を探るための特務機関員として派遣されたものであった。彼は、内蒙古、寧夏、甘粛、青海などを経てチベットに潜入、そこで日本は原爆で滅亡したという報に接した。この真偽を確かめるべくヒマラヤを越えてインドに潜入するも、既にインドには一人の同胞も残留しておらず、再びヒマラヤを越えてチベットに潜入したところから西域での潜行と放浪が始まったのである。
 日本人の身分を隠して「ロブサン・サンボー」という名前の蒙古人の巡礼姿に身をやつし、時には乞食の群れに紛れ込んだりしながらの潜行は、終戦直後の国際環境下にあっては言語に絶する苦労であったことであろうことは想像に難くない。日本人であることがバレそうになり、何とか言い逃れたことも再三であったと記している。地名などのメモも日本語で記す訳にはいかず、チベット語で記して、それをチベット経典の中に隠し持っていたそうだ。身分を隠すため、糊口を糊するためにチベットの寺院に入り、ラマ僧に変身もしている。著者はインド・チベット間を7回も潜入しているが、ヒマラヤ越えは標高6,700mのザリー・ラ(峠)であった。登山装備が発達している現在でも充分に高山病になる標高であり、食料も尽き襤褸衣だけを纏った乞食のような姿でよくも7回も越えられたものと、その精神力に感服せざるを得ない。本書は、放浪の旅で接した各地の地勢、気候、風土から、人々の生活、習慣、言語、ラマ教の事跡・仏典・寺院の様子など、自分の足で見聞した者にしか描けない生々しい紀行であると同時に、当時(60年前)の西域の様子を記録した貴重な資料ともなっている。何年間も現地の底辺に溶け込んで体験したものであるから、文章にも生命感が躍動している。口絵や文中に挿入された写真も当時の現地の人々の暮らしぶりが伺える貴重なものであろう。著者は2008年没。
   1972年芙蓉書房刊(新装増補版、上、中、別巻)
(注)芙蓉書房版は絶版になっていて入手が困難であるが、中公文庫版なら古本が入手  できる。新本は抄録版しかないが、同じく中公文庫(『秘境西域八年の潜行抄』)。
                                           (鈍鬼呆亭)

 


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i『神の木 民の木』 巨樹巡行 沖ななも著・土田ヒロミ写真

                

小生の山行計画の中には、必ずと言っていいほど、酒(日本酒の地酒)と湯(温泉)、そして巨樹との出会いが組み込まれる。山行の他に巨樹との出会いを組み込む事で、地元の歴史や、樹に対するその地の人々の想いを感じ取ることができるからである。
巨樹には、必ずと言っていいほど名前があり、名前を表示することで、住所や目印として民(地域住人)の生活に役立ち、同時に民から深く愛されてきたことを伺い知ることができる。本書に書かれている内容も、巨樹だけにとどまらず、地元住人の想いと愛情の表現が描写されており、そこにこの本の面白さがある。
 本書を書き下ろすに当たって、7年の経過年数をかけたというだけあって、地元住人の想いが素直に描写されているところに親近感が沸く。また、随所、随所に、これまで行った所を短歌に託して詠み込んであって、その内容を見れば見るほど、その当時の状況がフラッシュバックし、その時々の楽しさや想いが蘇ってくる魅力的な一面もある。
わたくしごとだが、小生にとっての“神の木、民の木“との最初の出会いは半世紀も前のことである。忘れもしない昭和の皇太子の御成婚(1959年4月)のあったあのよき時代に、本書にも記載されている三春の滝桜(福島県三春町)に出会ったのである。
当時はまだ今のような道路も無く、親父の自慢のスクーター「スバル・ラビット250」の後ろに乗り、ボコボコした畦道を走って行った記憶を思い出す。坂道の途中でエンコしたトラックを後ろから押している姿を横目に、親父のスクーター・ラビット号は苦もなく走っていったのが脳裏に鮮やかだ。
 当時は、三春の滝桜の桜見は、地元の人々の楽しみでしかなかったのだが、その桜を15キロ以上も離れた郡山市から、わざわざ見物に来る人は皆無に等しかった。「三春の滝桜をスクーターに乗って見に来た人がいる」と地元で噂になったのを目の当たりにできたことに、いささかステータスを感じたものでありました。ただ、1000年の歴史の中で、さまざまな人の訪問を受けている三春の滝桜から見れば、我々の存在などは、もちろん取るに足らぬものに違いないのだが…。
 三春の滝桜は桜守と民によって守られてきた、「神の木」であることは、誰もが認めるところである。その証拠に根元には祠が存在し、昔から崇められてきた。昔の言い伝えの中で、例えば三春盆唄の中に、この滝桜が唄いこまれている。「♪滝の桜に手はとどけども、殿の桜では折れない〜〜♪」。三春藩主がこよなくこの滝桜を愛し、毎年花の時期になると「いま何分咲き」と問い、満開のときは藩主が自ら桜見をしたと言われる程の、名のある有名な巨樹である。藩主はこの桜を御用木とし、枝廻りの地租を無税として桜の保護に努めたと言い伝えられている。そして今ではご存知の通り「日本三大桜」として君臨し“東の横綱”の称号まで戴いている。
  本書の中では三大桜を次のように記している。〈岐阜県根尾谷の薄墨桜は毅然として自在〉、〈山梨県武川(むかわ)の神代桜は威風〉、〈三春の滝桜は妖艶〉と。もし三春の滝桜を妖艶のテーマとして考えるならば、晴天の青空に靡くしだれ桜よりも、ライトアップされた時か、雨に濡れた姿が良いのではないか、と写真家の土田ヒロミ氏に問いたいところである。
 終わりに本書には地域別に、北海道・東北=14樹、関東=13樹、中部=18樹、近畿=12樹、中国・四国=15樹、九州・沖縄=11樹、計83樹の名木が取り上げられている。これらの名木をシリウス会員各自のお住まいの近くから見聞していけば、身近な入門書として参考になる書物だ。
 日本を縦断しての7年間の旅は本当にお疲れさまとしか言いようの無い旅のようであるが、土田氏の撮影後記の中に「時を超えて生きることの壮絶さを教えてくれた旅」と記していることが、この本の最も印象に残る言葉である。 NHK出版 定価1.800                                               (菅野裕治)

 


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『ヒト、山に登る』 柏瀬祐之著、白水社

                   

ニタニタ、イヒイヒ、笑えてしまった。抱腹絶倒。同じ著者の後著『午後三時の山』も登山に係わるモロモロを、機転の利いたエスプリと上質なジョーク、ややシモネタではあるがホンワカとした艶笑噺などのオブラートに包んだ絶品で笑えたが、こちらはエッセーなどが主であったのに比べて、ここに紹介する一品は山に関するマジメな論考を軽妙洒脱な筆致で描き出していて笑わせる。「山」と言っても、所謂「登山論」などの屁理屈ではなく、「ヒトは何故“高み”に登りたがるのか」という人間の不思議に焦点を当てたものである。
  「はじめに」に曰く、「・・・広く人間の生い立ち、行動、感覚、文化、自然との関係を通して、<登山から見た人間>あるいは<人間から見た登山>を訪ねて、一般によく論議されている登山の陽のあたる部分ではなく、あえて地下に深く埋もれた根っこの部分である“人間とやらの素性”をまさぐってみようと、無知、短見、強弁のとりどりを承知の上でけっこう楽しく風呂敷を広げさせてもらった・・・」(筆者要約)。
  このようなワケであるから、内容も、ヨーロッパの近代化の幕開けはフランス革命や産業革命なぞではなく、それまでは悪魔の住処と恐れられていたモンブランの初登頂にこそその嚆矢が求められるという新説を、自然主義志向派の巨頭ルソーやソシュール、現象学のフッサール、はては本邦の筒井康隆「文学部唯野教授」まで、記号論や構造主義やポストモダニズムを引っ張り出して、そのウンチクを傾け、続く章では、人類進化の通説、奇説を遊覧しつつ“立つ”から“登る”への生物学的な進化とその心理、さらには、人間の最もプリミティブな感覚である触覚とその環境である実在空間を論じて、現代人が持っている虚在感嗜好、水平志向、脱重力志向の危うさを、登山、人間、自然をバックに指摘している。
  論じている内容は堅苦しいが、それを寝転んでイヒイヒ、ワクワクと読ませる著者は、ナリワイは会社役員ではあるが、これはタダモノではない。20年ほど前に単行本で出版された折にはあまり売れなかったと謙遜しているが、それから10年後に新書版で再刊されたのも頷ける。“知性と教養”を旗ジルシとする我々の山岳会員にはうってつけではなかろうか。 白水Uブックス。  (ゴサガ)

 


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『森林・草原・氷河』 加藤泰安著、茗渓堂

 
                  (目次の一部)

未だ「探検」や「遠征」という言葉が生き生きと輝いていた古き良き時代に、京大の遠征隊でならした著者の山行記、探検記である。いくら良き時代であったとは言え、長期にわたる遠征にしょっちゅう出かけていては、仕事も続けられないであろうに、著者は遠征から帰る度に新しい社長業が待っていたという誠に羨ましい幸運児であり、井上靖の「あした来る人」のモデルでもあった。ネアカでセレブの出自でもあったせいであろうか、文章も肩肘張ったところがなく、ほのぼのとしていて寝転んで読め、しかもウィットとユーモアに満ちている。40年以上も前に出版されたものとは思えない。
  内蒙古の探検から始まって、チョゴリザ北東峰やサルトロ・カンリの初登頂などカラコルムの山行記に紙幅の大半がついやされていて、往時の海外遠征の様子が髣髴としてくる。「ゴサガ」というペニス・ケースだけを身に着けたニューギニア中央高地のダニ族やウニ族が世に初めて紹介され、世間を驚かせたニューギニア秘境の探検記も収録されている。確か本多勝一が朝日新聞に書いた記事とゴサガの写真をご記憶の方も多いのではなかろうか。その頃は私は大学生であったが、「ゴサガ」と「アマカネ」(こんにちは、有難う)という現地の言葉が学生の間で大流行したことを覚えている。
  本の内容は海外の山行記や紀行文が主であるが、「登山界よ、どこへ行く」、「登山のために」、「登山指導者の責任」など、今読んでもナルホドと唸らせる論考もあり、著者の登山哲学への炯眼はその辺の所謂登山家の比ではない。多くの真摯な探検と登山に裏打ちされた知性と天性の気品とがなせるワザであろう。
 私事で恐縮であるが、この本を最初に買ったのは会社に入りたての頃で、給料の1割以上も叩いて買ったような記憶がある。お陰で給料日前になると口を糊するのにも困り、一晩の晩飯代のために古本屋に質入れを繰り返した挙句、いつの間にか流れてしまった。当時は古本屋にも質屋の機能があって、所定期日までに元利を差し出せば、取り戻せたのである。先日、新橋駅前の蒸気機関車広場の古本市で、たまたまこの本を見つけて買い戻した。定年退職時の給料の0.2%であった。
  新本は無いが、古本なら今でもアマゾンで購入できるので、ご一読をオススメしたい。
  1966年、茗渓堂刊。    (酎)

 


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『復刻・北アルプス夜話』 長沢武著、長崎出版
『立山夜なべ話』 佐伯和起著、牧歌舎

  

期せずして同じような内容の本が出版された。「北アルプス夜話」は30年前に出版された同名の復刻版。内容はそのままだが、決して古ぼけてはいない。長く地元に暮らす著者の心血を注いだ一編だ。いわゆる「博覧強記」の部類に属し、読むほどに当方の知識の乏しさが身に沁みる。食用野草の話が柿本人麻呂の和歌を混じえて書かれていたり、雪形の考察、上条嘉門次や小林喜作らがクマ撃ち、カモシカ猟で競っていた昔話も出てくる。著者のウンチクの深さは、戦国武将・佐々成政の“冬の針ノ木峠越え”の分析で極点に達する。全般に古文書に詳しいようで、北アルプス山麓の郷土史の一面もある
 一方、「立山夜なべ話」は、立山町芦峅寺で佐伯一族の中に生まれた著者が、古くから地元に伝わる話や、村の生活やらのさまざまを、囲炉裏端で語るように一話づつ短く綴り、43話にわたって構成されている。千年にも及ぶ芦峅寺の歴史がつむぐ“話のタネ”は恐らく無限にあるに違いない。「北ア・・・」が山麓の話題なのに対して、こちらは山にかかわる話が多い。名だたる立山ガイドの伝統を背負っているだけに当然だ。山小屋経営のこと、遭難救助の苦労、イワナ捕り、山スキー、ぼっか(歩荷)の自慢、と話は続く。遭難救助では板倉、槇、三田3氏の遭難の逸話。あるいは、戦前のガイドには10貫目(40kg)の荷を背負って滑るスキーの検定試験があった、など興味が尽きない。
  復刻「北アルプス夜話」長崎出版(1900円)、「立山夜なべ話」牧歌舎(1200円)
                                       (bes)

 


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『雲表の国ー青海・チベット踏査行』色川大吉著、小学館
『チベット・曼荼羅の世界ーその芸術・宗教・生活』同編、同

  

 2年ほど前、西寧とラサを結ぶ約2,000キロの青海鉄道が完成し、これを利用してチベットを訪れるツアーやトレッキングが人気が高いそうである。また、5、6千メートル台の未踏無名峰がゴロゴロしていると言われている東南チベット、四川、雲南、ミャンマー北部に跨る所謂“ヒマラヤの東”も中村保氏や松本?夫氏などの著書を通じて新たな脚光を集めているらしい。そのようなことから、今後チベットに足を踏み入れる方々も多いのではなかろうか。 
 海外登山やトレッキングは、他家のお座敷に上がらせていただくものであるから、単に登頂できればそれでよいというものではなく、やはりそれなりの礼儀作法が必要であろう。この間の事情は、かってのヒマラヤ遠征隊などが地元とのトラブルを起こしていることからも推測できよう。礼儀作法の一つはその国や地方の“文化”を理解し、その文化の上に立脚した彼らの尊厳や物の考え方や暮らし方を尊重することから始まるのではなかろうか。そのような意味で、登山ルートの研究だけでなく、そこに住んでいる人々の暮らしのありようを勉強し考えておくことも“装備”のひとつであり、またそれゆえに登山に付随する楽しみも増えると思うのだが、如何であろうか。
 チベットについて書かれた書籍は、古くはスヴェン・ヘディン、ハインリッヒ・ハラー、河口慧海、多田等観、青木文教、西川一三、やや新しいものでは川喜田二郎や藤原信也など古今東西枚挙に暇が無いが、ここではチベットの人文、自然などがわかり易く書かれた比較的新しい本を2冊紹介したい。いずれも、「東北大学日中友好西蔵学術登山隊」の学術人文班長として参加した著者(編者)が著わしたもので、どちらも20年ほど前に出版された本であるが、現在も小学館ライブラリーに集録されている。(因みに登山班の目標は当時未踏峰であった念青唐古拉山)。
 前者は、学術班が歩いた西寧〜入吐蕃道〜青海湖〜青蔵公路〜ラサ〜ヤルツァンポ流域〜ヒマラヤ〜カトマンズで見聞した古代の道、遺跡、寺院、街や村や廃墟、自然の様子、そこに住む人々の暮らしや宗教を思想史専攻の研究者の目で紀行記風に記したもので、個人的踏査記であるから、正直な感想や批判的な意見も書かれていて好感がもてる。文革によるチベット民族への迫害、チベット文化や伝統の破壊についても歯に衣を着せていない。
 後者は、同じ著者が編集した本であるが、前者とは多少毛色が変わっていて、学術班の各分野の研究者が調査した研究成果を纏めたものである。チベット民族の精神史・思想、仏教文化、儀礼と芸能などに多くの紙幅が費やされているが、中国革命に巻き込まれた民衆の暮らしと文化がどのように変容していったか、厳しい極限的な自然環境の中で彼らはどのような生活の仕方をしているのかといった環境と人間の側面なども記述されている。専門的な記述も多いが、じっくり読めば知的好奇心を満足させてくれる本でもあろう。                          (アル酎はいま〜)         

 


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『夫婦で踏破58日〜日本横断縦走700キロ』伊賀敷洋一・晴江著、文園社

 

 一生に一度くらいは「会心」と形容できる登山をしてみたいと思う。ウェッターホルン西山稜初登攀者。「たった一人の山」の著者浦松佐美太郎ですら、「会心」と呼べる登山をした事がないという。本書の著者伊賀敷夫妻はこれぞまさしく誰もが認める「会心」の山をやってのけたようだ。実に素晴らしい。
 本書は日本海・親不知海岸から太平洋・沼津千本浜海岸までの700キロを58日間かけて踏破した記録である。それも平地を歩いたわけではなく、3000メートル峰21座30峰を完登してしての事なので、それだけでも凄いのだが、実はそれを夫婦2人でやり遂げたからこそ価値があるのだ。過去にも試みられた例はあるらしいが、夫婦で達成したのは前代未聞、伊賀敷夫妻をもって嚆矢としても今後二度と出ないのではないかと思う。
 58日間順風満帆あったわけではなく、土砂降りの八峰キレット、北岳のハイマツ漕ぎ等、いつ挫けてもおかしくない艱難辛苦を乗り越えて成し遂げた快挙であり、その裏には、周到な準備、延べ100人を超す仲間や山小屋関係者のサポートと激励があり、それも多くの人に感動を与えた、これこそ浦松のいう「芸術の域」に達した「会心」の山であろうと思う。毎日の記録を夫婦夫々の感性で書き綴っているが、妻の食事や高山植物に寄せる細かな目、アッサリ・淡々の夫、二人の文章を比較しながら読むのも面白いだろう。
  2007年5月文園社発行、本体1600円。  (赤) (白山書房「山の本」61号所載)

 


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『北アルプス大日岳の事故と事件』斎藤淳生編、ナカニシヤ

7年前の平成12年、北アルプス大日岳山頂付近で巨大雪庇が崩壊し、文部省(当時)登山研修所主催の大学山岳部リーダー研修会に参加中の11人が転落、うち大学生2名が死亡した事故は記憶に新しいことであろう。この事故では、遺族が国を相手取って民事訴訟を起こし(後に和解成立)、また、講師のうちの2人が富山県警から業務上過失致死罪で書類送検(4年後に嫌疑不十分で不起訴)されるという、民事、刑事双方での訴追という山岳遭難事故では前代未聞の事件に発展した。
 民事訴訟の方はさておき、刑事訴追の方では、講師が「雪庇崩壊の危険性を予見できたかどうか」、「研修生が立っていた位置が雪庇の上であることを予見できたかどうか」という2点で争われた。訴追された講師が所属している日本山岳会京都支部は、「予見は不可能だった」という立場に立って、講師が刑事訴追を受けることになれば、登山界の責任倫理に深刻な影響を及ぼし、リーダーが責任を免れることに走るようになっては健全な登山活動の発展は望めなくなるとして、支援委員会を設置し不起訴嘆願書署名活動・募金活動、弁護活動を展開した。また、雪氷学の専門家と協力して大日岳の崩壊現場における積雪地形や雪庇の形成・消滅(崩壊)の実証的研究も行った。
 この本は、そのような活動を通して、山岳遭難事故の法的責任とは何か、それへの対応方法、また、従来は小規模な雪庇に限られていた雪庇の研究を巨大雪庇の現場で科学的に究明していった過程とその結果が纏められている。また、訴追への対応活動とは別に、今後このような遭難を防止するために6回にわたって行われた「大日岳事件研究会」の質疑応答の模様も掲載されている。この遭難事故のヒューマン・ファクターの連鎖究明などについての言及も欲しいところであるが、記述が訴追への法的対応と雪庇研究だけに限られているのが惜しい。
 筆致は、どちらかというと報告書風であって所謂ドキュメンタリーの感興は無いが、リーダーたる者の社会的責任が大きく論じられるようになった昨今、リーダーを務められる方々には是非ご一読をお薦めしたい。
 2007年10月、ナカニシヤ出版刊。本体1,900円。       (アル酎はいま〜)

 


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『ヒマラヤの東』、『深い浸食の国』、『チベットのアルプス』中村保

 

先日、著者の講演会を聞く機会があった。それによると、中国の雲南州、四川州、チベット自治区、それにミャンマーが接する辺りは、アジアを代表する大河の源流部と複雑な褶曲山脈が織りなす驚異の自然が存在し、6000m級の未踏峰が200以上あるそうで、秘境に興味がある方には堪らない魅力ではなかろうか。実際には入境するのが 困難な地域であるから、机上登山に終るかもしれないが、それはそれでまた楽しいであろう。これらの著書に挿入されたそれぞれの山の写真もヒマラヤ本体の山々に劣らず魅了的な山容である。
 著者は、15年にわたって26回もこの秘境を訪れた著者の未知の山々と少数民族の記録であり、地図の空白地帯であったこの地域のパイオニアー的研究の成果でもある。また、初期の探検家や布教家の足跡も辿っていて、その頃の苦労話も紹介されている。
第6回秩父宮記念山岳賞受賞(2003年度)。
 「ヒマラヤの東」1996年刊、3000円、「深い浸食の国」2000年刊、3000円、「チベットのアルプス」2005年刊、3200円、何れも山と渓谷社発行。  (アル酎はいま〜)

 


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『セルフレスキュー』渡邊輝男著、山と渓谷社

 セルフレスキューに関する邦文の技術書は余り刊行されていない。あっても岩場や雪山に特化したレスキューテクニックである。とかく「レスキュー」などと言えば、高度な専門的特殊技術で一般登山者には縁が無いものと思われがちであるが、山岳遭難や事故はハイキングでも一般の登山でも充分に起こり得る。山での事故や病気が起こった場合に、自分達の手で負傷者をヘリや病院などの医療専門機関に引き渡すまでの応急処置がセルフレスキューであり、適切な処置ができるかどうかで命を失ったり、後遺症で苦しむことになったりする分かれ道となる。
  この本は、岩場や雪山でのセルフレスキューに加えて、一般登山でのセルフレスキューについても懇切丁寧に解説されているので、初心者にも分かりやすい。また、レスキューテクニックだけでなく、山岳事故の要因・バックグラウンド、救助要請の方法、救急法の基礎知識、それに遭難者の家族や仲間との対応・事故の後始末といったアフターフォローについても記述されている。写真や分かり易い図版も多用されていて親しみやすい。中高年登山者にもご一読をお薦めしたい。
 著者はレスキュー技術の研究・普及に熱心な方で、日本山岳協会遭難対策常任委員、日本山岳レスキュー協議会幹事、東京都山岳連盟・(前)遭難対策委員長。
   「 登山技術全書11」、2007年6月、山と渓谷社刊 本体2,200円       (酎)  

 


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『原野と森の思考』伊谷純一郎著

 「高崎山のサル」で有名な著者が亡くなられて6年、この本は多くの著作の中から一 向けのエッセーを関係者が没後に編纂したものである。副題が「フィールド人類学への誘い」とつけられているように、高崎山のニホンザルの研究から出発して、アフリカのゴリラ、チンパンジーからアフリカの大地に自然と深く関わりながら生活しているプリミティブな焼畑農耕民族、狩猟採集民族などの「なりわい」をフィールドに追い続けた著者のフィールド調査に対する哲学が、著者の少年時代に接した自然への思いやフィールド研究中に目に留めた些細なことがらなどのエッセーを通じて分かりやすく編集されている。原野と森を自分の足で彷徨し、その中の研究対象物である自然や動物や人に対して深い尊敬と敬意を払う「京大系・自然学」の伝統が行間に滲み出ている。
 終章で、恩師今西錦司の思い出やその自然研究の態度、京都大学の霊長類研究の横断的組織などに触れつつ、現在の細分化された学問上の知見を人類の「知恵」として再構築するためには、子供の頃からの日々に体験してゆく等身大の世界への理解が重要と説き、特にフィールド分野に関してはそれぞれの専門分野の陥穿に落ち込むことなく、原理・原則よりもまずは現象を重んずる古くから「博物誌」と呼ばれてきた分野を再興することが、今後直面せざるを得ないことになる「学際」と「複雑系」に対処してゆくための唯一の道であると説いているが、けだし慧眼であろう。
 多少専門的な記述もあるが、寝転がって読める章も多い。この本は山とは直接は関係ないが、著者は山に縁故ある方でもあるのでここに紹介した。
  著者は英国王立人類学協会名誉会員、同王立トーマス・ハクスリー記念勲章授章。
   2006年岩波書店刊、4,000円。                        (酎)

 


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『京大探検部』 京大探検者の会(編)

 京都大学と言えば、山の世界でも棲み分け理論の今西錦司、初代南極越冬隊長の西堀栄三郎、フランス文学の桑原武夫、民族学の梅棹忠夫、照葉樹林文化の中尾佐助など錚々たる学者登山家を輩出し、また海外遠征(調査研究と登山のセット)の嚆矢でもあった。マナスル初登頂(1956年日本山岳会)も当初は京大により計画されたもので、後に日本山岳会に移管された経緯がある。
 話は飛ぶが、日本の最高学府は東大というのが一般的評価ではあろうが、西日本では圧倒的に京大の人気が高かった。東大は官僚の世界であったのに対して、京大は民のバーバリズムを尊ぶ気風に人気があったのであろうか。田舎の水飲み百姓の小倅に生まれた私などには、入学できるアタマもゼニも無かったが、高校の頃は憧れたものであった。
 この本は、京大探検部創設50周年を記念して、探検部の関係者が当時の想い出を綴ったものであり、部の創設、多くの遠征隊の成立経緯、雑感などで構成されている。筆者は、梅棹忠夫、川喜多二郎、河合雅雄、石毛直道、本多勝一など関係者40人以上に及び、それぞれの探検への思いが籠められている。惜しむらくは、冒頭に記した3人のパイオニアーは既に鬼籍に入っていて、その熱き感懐を聞けないことであろうか。
 余談であるが、過日、大阪の国立民族学博物館で、次項で紹介した『雲の上で暮らす』の著者山本紀夫教授の「秩父宮記念山岳賞受賞および定年退官記念講演シンポジウムー登山・探検・フィールドワークー地球の高みに向けてー」を聞く機会があった。この博物館は京大出身の研究者が多数を占めているのであるが、石毛直道名誉教授他京大探検部やAACK(京大学士山岳会)関係者による講演があった。いずれの方々も講演の中で、それぞれのフィールドワークの原点が登山や探検という体験から生まれたと話され、今ではこれらを志向する学生が殆どいなくなったしまったと嘆かれていた。確かに地球上では垂直的にも水平的にも、もはや「探検すべき」未踏の地は無くなり、「探検」という言葉も死語になりつつあるが、演者の一人の文化人類学者は「・・・、今や残された「探検」のフィールドは、唯一人間の心と社会の中にしか無い」と話しておられた。また、余談を重ねるが、冒頭の老梅棹忠夫先生もこのシンポジウムに家族に付き添われて杖に縋って出席されていた。往時の教え子達が入れ替わり立ち代り挨拶に来られた折、目が不自由な老先生は両手でかっての弟子達の手を握られて、その後の消息などを尋ねられていた様子が印象的であった。
                  2006年3月 新樹社刊 2800円。    (酎)

 


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『雲の上で暮らすーアンデス・ヒマラヤの高地民族の世界』

40年前から通算10年にわたってアンデス、ヒマラヤ、チベット、アマゾン、アフリカ高地に滞在し、高地牧畜・農耕民族の自然との関わり方・暮らしの工夫などの調査に当たってきた民族学者の現地での野帳記録をエッセー風に纏めたものである。著者は元々は植物学が専門で、高地での栽培植物の起源を調査するためにアンデスに入ったのだが、やがて興味の対象は高地民族学へ変化していった。自然条件が厳しい高地に住む人々が長い年月を掛けて、その暮らし方を高地の環境にどのように適応させてきたか、その結果どのような社会規範や慣習が生まれてきたか、などを著者が体験した実例を踏まえて平易に描いている。自給自足でつつましやかに生活していた40年前と、好むと好まざるとに関わらず現金経済の波を被るようになった近年の暮らしぶり、心の襞、社会構造の変化などが描かれていて興味深い。著者が属していた京大探検部の活動華やかかりし頃のエピソードも面白い。著者は「アンデス・ヒマラヤにおける高地民族の山岳人類学的研究」で2006年度の秩父宮記念山岳賞(日本山岳会)を受賞した国立民族学博物館(大阪)の教授である。
 ヒマラヤでは、ナムチェバザールに近いクーンブ地方の小村に滞在して、元々はチベット出自の小集団でしかなかったシェルパ族(今でもネパール人口の1%しかない)が如何にしてネパールに定着していったか、また、良きにつけ悪しきにつけ外国からのヒマラヤ遠征という行為が彼らの生活や考え方にどのような変化を与えてきたかなど、シェルパ族の民族学的調査については、同じ著者を編者とする『ヒマラヤの環境誌ー山岳地域の自然とシェルパの世界』(八坂書房)に詳しい。
  アンデスやヒマラヤを訪れたことがある方々には興味深い1冊であろう。
                2006年12月 ナカニシヤ出版刊 2600円     (酎)

 


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『登って 写して 酔いしれて』 武藤 昭著


             
 ほぼ同世代のこの作者の描く青春群像を読んでいると己がいかに幼稚であり能天気であったかが分りその未熟さ加減に恥かしくなってくる。天と地ほどもあるその差には愕然とするばかりで、冒頭紹介される佐内順の個性はそれほどまでに強烈だ。非凡な才能で悪魔のように周囲を魅了する彼との出合いがなければ、今の武藤昭は存在しなかったに違いなく若く多感な頃の出合いがその人の人生を大きく左右する事を改めて確認したのである。
 中学生にして山岳会を立ち上げた事すら驚きを禁じえないのに、その会名がボヘミアンのように気ままな芸術家というフランス語から「グループ・ド・ボエーム」とつけたというのだからなんたる早熟。そして偶然発見した明星山の大岩壁、次々と初登攀をかさねその報告は「山と渓谷」の紙面を飾り続け年間登攀賞を受賞するまでとなる。盟友と未踏の大岩壁登攀に明け暮れる高校生活だったが、その盟友には友にも窺い知ることの出来ない暗い過去が影をおとしていたのである。
 そしてRCCUの立役者奥山章とのアルプス行、8千メートル峰七座を果したばかりの頃のメスナーとの出会い、映画「マークスの山」の撮影裏話へと話題が続く。アルプス滞在中にはフランス美女との「ナヌ!? コンチクショウメ!!」と男性読者を悔しがらせてくれる愛の交換もあったようでぬけぬけと暴露してくれて真にチョー羨ましいのである。好きなように気ままに生きてきた60数年。
 山岳映像カメラマンとして長く山に関ってきた作者のこれまでの50年を回想しその足跡を辿った本書は戦後の埋もれた登山史発掘という観点からみても面白いものがあるのだが、やはり圧巻は前半の佐内順に触れた章であろう。 白山書房 1800円
                                             (AKA)

 


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『鎮魂のカラコルム』 石川信義著

               

精神科医の著者がリタイアを機に、40年前に副隊長・登攀隊長として参加した東大カラコルム遠征隊の想い出を辿りつつ、カラコルムのキンヤンキッシュ(7852m、パキスタン)を再訪した旅日記である。遠征隊は隊員1人を頂上直下の雪崩で失って敗退した。著者は、この若くして亡くなった岳友やそれ以後に鬼籍に入った隊員3名(その内の1人は山崎豊子「沈まぬ太陽」の主人公のモデル)の友情を肩に、40年振りに74歳という老齢で遭難地点が見える氷河まで登って追悼のケルンを建てて来た。絶壁を2000mも落下して氷河に叩き込まれたであろう遭難者は捜索する術もなく、そのまま現地に置いてきたという40年来の痛恨が著者をこの困難な旅に駆り立てたと書いている。とは言え、この旅の印象を横糸に、当時の追憶を縦糸にして編まれた文章には暗い翳は感じられず、最初は気になったベランメエな語り口も読み進むうちに自然体となって、未だ見ぬカラコルムの自然や旅の様子に引き込まれていった。
  圧巻は、まさか会えると思ってもいなかった当時の高所ポーター2人が老体ながら未だ生きていて再会を喜び合った時の感動の様子である。その内の一人は著者が彼らの村に別れを告げた時、寝ていて別れの挨拶ができなかったからと、徒歩で2日も掛かる町まで歩いて著者が泊まっていたホテルを尋ねて来たそうである。随所に挿入された著者自身によるスケッチも楽しい。2006年7月岩波書店刊。(酎)

 


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『サバイバル登山家』 服部文祥著

山の好きな人なら、文句なく面白く読める。テーマが良く、文章が秀逸だ。読んでいて、ぐいぐい引き込まれる。著者は残雪の知床全山を縦走したり、K2に登頂、黒部を横断するなど、国内外で豊富な登山経験を持っている。
 この本の中での圧巻は25日間の「日高全山ソロサバイバル」だ。この山行は2003年8月2日から26日にかけて、北海道の日勝峠から襟裳岬までを独りで歩いた。食料のかなりの部分を現地で調達することを義務づけた初めてのサバイバル踏破。著者はその経過を詳細に、しかも冷静な観察力を織りまぜて書いている。
 装備は、寝泊まり用に小さなタープとフレームのない簡易テント(著者はシェルターと呼ぶ)。必需品としてのラジオ、時計、ヘッドランプ、地図。ガスコンロは持たず、調理は焚き火。そのためのライターと着火材。イワナを捕る釣り竿。食料の主なものは、米10キロ、ゴマ油、塩、粉ミルク、ふりかけ、お茶。
 行程のほとんどは沢の登り下りとヤブ漕ぎ。沢筋に出るとねぐらを定め、焚き火のそばで、イワナをメインディッシュに晩さんが始まる。毎日といって良いほどイワナを食べるので、その調理方法は実にバラエティーに富んでいる。玄米のご飯には納豆のふりかけをかける。実はこのふりかけが著者の大好物なのだ。著者はなんの道しるべも情報もない自然環境の中では、「なんとなく」感じる人間の感覚を大事にすることが必要で、それが成否のカギになる場合があると指摘している。山行中にクマの姿を見ることは希で、持っていったトウガラシスプレーの出番はなく、予定の日程で無事に下山できた。
 この他、知床や黒部を歩いたサバイバル体験も掲載され、それぞれ面白く読めるが、これを真似ようとする者はいないだろう。 みすず書房 2、400円 (bes)

 


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『梅里雪山〜12人の友を探して〜』 小林尚礼著

15年前、中国の雲南省と西蔵自治区の境界に位置する「梅里雪山」(メイリーシュェシャン、6740m)の初登頂を目指した日中合同登山隊が全員雪崩で遭難死し、地元民から神の山を冒涜した天罰だと非難 された事故は未だ記憶に新しいところである。著者はこの遭難事故当時京都大学山岳部の現役学生で、事故直後の第1回目の捜索隊に参加して以来15年間に亘り、独りで現地に通い続けて遺体や総重量1トン以上に及ぶ遺品を収容した。最初の頃は著者に対する現地の目は冷ややかで悪意に満ちたものだったそうだ。陸の孤島のような山深い辺境で何百年もの間、静かに自給自足の暮らしをしてきた人達にとっては当然のことだろう。

しかし、何年間も通っているうちにやがて著者は現地に溶け込んでゆく。捜索活動の合間に、チベット人の一生の祈願といわれている梅里雪山を一周する巡礼の旅にも現地の人と一緒に3回も出掛けている。地元の村長の言として、著者は以下のように書いているが、けだしこれは地元で長年に亘り暮らし続けてきた人々の信条であろう。「聖山とは親のような存在だ。そこに登る行為は、親の頭を踏みつけることと同じだ。なぜ我々の聖山に登ろうとするのか。チベットには聖山ではない山もある。人里から仰ぎ見えない山がそうだ。そういう山に登ることまで我々は止めない」。「親」とは、人間を誕生させ、育み、再びそこに還らせるという命の源のような存在を指している。著者は試行錯誤しながら「聖山」としての「梅里雪山」へたどり着いた思いを「聖山とは、生命の源である。(中略)生と死をつかさどるこの神の山は、人々の心の支えとなっている。この風景は教えている。人間の生きる背後に、大いなる自然が存在することを」と記して、この本の終章を結んでいる。

 遭難の経緯や捜索活動の報告もさることながら、海外登山がポピュラーになってきた現在、往古より地元民が崇めてきた山域に足を踏み込むということがどのようなことなのかを、改めて考えさせられる好著である。 2006年2月、山と渓谷社刊。 ( 酎)

 


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『山の世界ー自然・文化・暮らし』 梅棹忠夫・山本紀夫編

山に関する、人文・自然科学を総花的に網羅した初歩学術書である。この欄の主流をなす叙情的・詩的な、或いは冒険・探検・紀行記ではない。しかし、それぞれの専門分野で活躍する30数名の執筆者の山への愛着は、いわゆる登山家に優るとも劣らない迫力を感じる。かつての秀でた登山家であり、自分自身の足でフィールドを渉猟、その分野を極めた権威者も多い。安直なHowToものを遥かに超えた、知識習得型「山」の本である。

児童・青少年の自然離れ、人文・自然科学研究者のフィールドワーク離れ、登山界における商業登山・カタログ登山等への慎ましい危惧表現、環境問題・政策・・・等々、大袈裟に云えば、日本の将来に警鐘を鳴らす書と云えよう。  その内容を要約しようとしても不可能である。なぜならば一編一編が多岐に亘り且つ独立し、完結し、しかもそれぞれ個々の作品は山好きの読者に知識と共に深い感銘・感動を与え、全く無駄がない。あえて要約しろと言われれば、全文をそっくりそのまま転写せねばならぬ。 テントのランタン下、一献を傾けながらの夜長を、仲間に「知ったかブリっ子」を演出できる格好の本であろうし、或いは山中にあって山岳・動植物等その生立ち・変遷に、山村・山の民のなりわい・生き様に、独り静かに想いを馳せる糧になろう。 岩波書店 2004年7月刊 本体3,000円    (RIO)

 


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『牧場の四季』 周はじめ著 

北で育った人は別にして、誰でも若き頃に一度や二度は「北」への指向やノスタルジーを?き立てられた経験があるのではなかろうか。「都ぞ弥生」や「北帰行」などの歌が若者を魅了したのもこの顕れであろう。瀬戸内海沿岸で育った私は、社会に出るまで大阪から東には行ったこともなく、まして北海道などは僅かに新聞記事か何かでたまに目にするだけの遠い存在であった。その頃家にはテレビなどもなく、北海道のイメージといえば写真集で見た広大な原野の風景や、本か何かで読んだ入植者の開拓譚、クラーク博士の「ボーイズ ビー アンビシャス」くらいしか知らなかったが、それ故に何か彼の地は開拓精神やロマンが満ち満ちている希望の大地のように感じられたものであった。山奥の田舎の高校でも毎年1人くらいは北大に進学する生徒がいて、羨ましくてならなかった。水呑み百姓の伜には、左様なアタマもゼニも無かった。

40年程前、就職して下宿していた阿佐ヶ谷駅前の古本屋で何気なく手にしたのがこの本であった。挿入されていた風景や動物のモノクロの写真も遥か北の大地の詩情をくすぐるものがあったが、目次を見て益々気に入った。「森に消えた男」、「カムイの呼び声」、「牧場のスケッチ」とある。何やら神秘的で心が動かされるではないか。著者は鳥や動物の生態写真を撮るために何回か根室原野に通い詰め、その時に聞いた開拓古老の話や、自分が見た根室原野の情景や動物の暮し振りを織り込みながら、一編の心象風景を物しているのだが、そのストーリー展開が飽きさせない。特に、風蓮湖辺りに棲息し、原生林の神コタンクルカムイと呼ばれた巨大なシマフクロウが、開墾によって森を追われ、人家の近くに出没して家禽を襲うようになってから仕掛けられた罠に捕まって、やがて絶命するまでの何日間かを、与えられた餌を拒絶して超然と威厳に満ちて死んでいったというくだりは、著者の野生動物に寄せる思いが伝わってきて感動的である。

この本に触発されて、同じ著者の本や同じく北海道の自然や暮しを描いた更科源蔵や坂本直行の本も読んだ。北海道には出張では何回も行ったが、札幌日帰りかせいぜいススキ野の赤提灯を楽しんだだけ。若い時分には北海道支店に転勤にならないかと淡い夢を期待してみたのであるが、結果は大阪や鹿児島に飛ばされたりしながら定年になってしまった。現在の北海道の原野がどのようになっているかは知らないが、或いは、この本に書かれた40年以上も前の夢幻(?)に私の「北」を封じ込めておいた方が良いのかも知れない。 1961年 理論社刊。 (酎)

 


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『セブンイヤーズ・イン・チベット』 ハインリヒ・ハラー

1938年7月「死の壁」と呼ばれ恐れられていたアイガー北壁の初登攀に成功し一躍世界の注目を浴びて伝説の登山家となったハラーは、その勢いを駆って翌年ナンガパルパットに遠征したが 雪崩の為登頂を断念しインドへ下山する。彼はオーストリア人だが、ドイツ隊の一員として遠征に参加しており、下山してみると丁度第二次世界大戦が勃発したばかりで、インドにおいて敵国イギリス軍の捕虜となってしまったのだ。しかし人一倍血の気の多いハラーが屈辱的で退屈な捕虜生活に満足するわけもなく幾たびも脱走を試みて遂に5回目にして成功、仲間と2人でのヒマラヤ山脈越えの脱出劇が幕をあけるのである。

零下40度C以下にもなるという厳冬期に6千メートルを越すヒマラヤを越える事が出来るのだろうか。運命やいかに。 古くは南極から生還したシャックルトン、至近な所では「垂直の記憶」の山野井泰史等超一流の探検家、登山家達の著書を読み一番感じるのは、何としてもやり遂げるのだ、生き抜くのだという強靭な意志の強さだ。彼らに共通するのは冷静な判断力もさる事ながら、次々に押し寄せるつらい試練に決してくじけない勇気、その並外れた精神力にはただ頭が下がるばかりである。日頃、惰眠をむさぼり安直な山登りしかしていない我ら凡人には到底できる事ではなく、だからこそ彼らの真摯な行動に感動してしまうのだろう。

ハラー達は21ヶ月の彷徨の末 ボロボロになって禁断の都チベットの首都ラサに潜入、後には政府顧問となり神の子ダライラマの個人教師にまでなるのだが、その辺は映画でもよく知られている通りである。ブラッド・ピットの映画も良かったが原作の方がはるかに迫力があって面白い。チベット人になりすまし聖地ラサに辿り着くまでの手に汗握る冒険談は到底映画の及ぶところではない。12年後に祖国に戻り発表した「チベットの7年」はたちまち世界的なベストセラーとなり、続いて刊行したアイガー北壁初登攀記「白い蜘蛛」は今でもアイガー北壁を目指す若者達のバイブルになっているという。ノーベル賞に平和賞があるのだから、冒険賞でも設けたらいいのにと思うが、まさに彼こそその賞にふさわしい1人であるに違いない。 角川文庫 987円。 (赤鬼)

 


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「山のパンセ」 串田孫一

この本との出合いは1960年代にさかのぼる。社会人になって間もなくのころ、ワンゲルのサークルに入って野山を歩いていた。安月給だったので遠出はできず、東京近郊かせいぜい谷川連峰辺りであったと思う。ささやかな山行ではあったが、職場を離れて空や緑や水を眺めていると、それなりの開放感に浸ることができた。そんなある日、書店で見つけたのがこの本で、書名に惹かれて手に取った。「山のパンセ」って何だろう。山を舞台にしたパンセと言う少女の物語りではないかと思った。著者の名前にも馴染みはなかった。全書判のハードカバーを開いてみると、日本の山登りの話で、柔らかい文章で、なんだかメルヘンチックな山の世界が描かれている。いま自分たちが、わいわいがやがや歩いているのとは別の山登りがあるようだと思って買った。

読んでみて驚いた。読んでも読んでも自分が読んでいる気がしない。ずーっと読まされているばかりで、あっけにとられてしまった。内容がつまらないのではない。著者の物を見る目と、それを表現する文章が、今までに経験のない種類のものだったからだ。単純な行為にすぎないと思っていた山歩きを、ここまで昇華して書き表わすことができるものなのか。私は読むことも書くことも一向に苦にならない方だが、この著者の洞察力と表現者としての力量には、この先何百年生きても及ばない、そんな隔たりがあると思った。

「少しひからびた西瓜の種子に、品よく赤と金とをさらりと塗ったような實から、何か見ているといじらしさを感じるような巻毛が生えている。平たい頭をそれぞれにかしげて、何を考えているのか分からないが、強い風の日に飛び立って行く時のことを思っている様子である。この草にとって、それは最後の夢のようにも思われた」。この部分に昔付けたらしいカギ括弧が残っている。秋の草原で見かけた「仙人草」を描いた文章だが、道すがらに目についた草花に、これだけの思い入れをすることは私にはとてもできない。けれども昔も今もこの本は、自分が文章を書く時のお手本として、また、山を考える拠り所にしたいと願っている、そんな一冊である。

著者の串田孫一氏はパスカルの研究で知られる哲学者。随筆家、詩人で、73年に廃刊した山の雑誌「アルプ」の編集長でもあった。90年までに「若き日の山」など29冊の山の本を出している。「パンセ」はフランス語で「瞑想録」とか「思考」という。私が持っているのは63年前後に実業之日本社が出版したTとUで続刊のVはない。95年に岩波文庫で「新選・山のパンセ」(緑148-1)が出版され現在も書店にある。(Bes)

 


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『机上登山』  西丸震哉著

書斎に垂れ込めてウィスキーの水割りなどをチビチビと啜りつつ、釣りの瞑想と大法螺に耽る釣り人を「アームチェアー・アングラー」というが、山の世界にも同様な楽しみがある。梅雨や秋霖がシトシトと降り込める時など、 2万5千図を拡げてうっとりと半眼で眺めてみれば、等高線の起伏も鮮やかに浮かび上がり、樹木の囁きや鳥の鳴き声、はてはゴーゴーと吹き抜ける風雪の音まで聞こえてくる(ような気がする)から不思議なものである。

本書は地理院の地形図だけを頼りに、北は択捉島から南は西表島まで、未踏の別天地の穴場20ケ所を机上で踏査した幻の紀行集である。見てきたような嘘も如何にもそれらしく記述されているから、自分が探検家になったような気分になってくる。単に登山のことだけでなく、著者得意の博物学の蘊蓄も傾けられていて楽しい。著者もまえがきで述べているが、所謂カタログ登山から脱却して自分自身の○○名山を見つけるのにも役立つのではなかろうか。残念ながら版元が解散してしまったので古本屋か新本特価本を探すしかない。博品社 1998年刊、1800円 (酎)

 


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『地の果てに挑む マナスル・南極・北極』 村山雅美

今年はマナスル登頂50周年に当たる。本書はそのマナスル遠征隊に2回に亘って参加して第3次遠征隊登頂成功の原動力となり、またその後は南極観測計画に参画して第1回から数次に亘って南極観測隊員と隊長を務めた著者による自叙伝・回顧録。一昨年から昨年にかけて50回にわたり東京新聞に連載された。マナスル遠征も南極観測の始まりも半世紀も前のことで、戦後の復興が未だ終っていないこの時期によくもこれだけの大事業が成し遂げられたものと感心させられるが、大変な苦労や葛藤の中にも隊員達の意気込みや個性や人の和が軽妙洒脱な筆致で描かれていて引き込まれる。当時の登山や山岳界の様子なども手に取るように分かって楽しい。
著者は現在88歳、昨年講演を聞く機会があったが、矍鑠としてユーモアのある語り口で聴衆を沸かせておられた。今年の秋は南極観測開始50年。極地探検の半世紀の歴史を振り返ってみるのも悪くない。東京新聞出版局2005年6月刊、1575円。  (酎)

 


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『最新アルパインクライミング』 菊池敏之

評判が良かった前著『最新クライミング技術』の続編であるが、内容は大幅に改定されている。紙幅の1/4をアルパインクライミングの概念(その歴史、ものの考え方、倫理)に費やしているのも他のハウツー物とは一味違う所以であろう。前著でも、数ある同種技術の中から“何故、今はこの技術を使うことが求められるのか”という切り口からの解説に力点が置かれていたが、今回は更にこれが掘り下げられているし、日頃“常識”として一律に使っている技術が、場合によっては如何に危険を孕んだものであるかも詳述されている。また、技術に関する「知識」よりも「現場感覚」の方が数等大切という 視点は、とかく道具やマニュアルに頼りがちな“技術人間”には目から鱗でもあろう。

安全性確保の面でも、“「レベルを上げなくてもよいから安全に」は絶対にありえない”、“(インドアやゲレンデでは墜ちることが常識化しているが)、アルパインクライミングでは墜ちることは絶対に許されない”など示唆に富んでいる。歳を取ってくれば、とりたてて難しいルートに手を伸ばさなくても良いから安全に楽しめればそれで充分だという意識が生ずるが、前者の言はよく噛み締めるべき警鐘であろう。諸処に挿入されたコラム風の「○○○私見」も著者のクライミングに対する本心が覗いていて面白い。今回は「ビッグウォール」、「単独登攀技術」、「冬壁登攀」などの項目が追加されている。クライミングをされる方は騙されたと思って是非ご一読を。   2006年6月、東京新聞出版局刊。  (酎)

 

 


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Mountaineering−The Freedom of the Hills,7th ed.

山岳書の専門コーナーを覗くと、ありとあらゆるジャンルの技術書が花盛りである。曰く「○○クライミング技術」、「△△沢登り入門」、「○○アイスフォール・テクニック」、「フリークライミングの△△」、「○○氷壁技術」等々。ジャンル別のガイドブックにも事欠かない。登山の裾野が広がり、それだけ各ジャンルの領域も世代を超えて深まっていることの証であろう。

これはこれで結構なことではあるが、一方で登山という全体的営為(重箱)を別々の四隅からつつく風潮を助長してはいないだろうか。勿論、ジャンル別の技術書を否定するつもりは全くないし、登山という行為は個人個人の自由であって、好みもまた千差万別であるから、他人がとやかく言う筋合いではない。しかし、しかしである。私のような古いタイプの化石人間にとっては、登山とは渓あり、岩あり、氷雪あり、なだらかな尾根歩きや緑の草原での憩いありというような種々のタイプが複合されて初めて、山登りという営為の輪が完結するように思えるのである。

このような観点から再び書店の山岳書の棚に戻ってみると、一環した思想と体系のもとにトレッキングの初歩から氷瀑登攀やミックスクライミングなどを含んだ最新技術までを1冊に纏めた技術書を見つけるのは甚だ困難なことがわかる。総論はあっても総花的で、各論はあまりにもテクニックだけに偏っているように思える。

この本はオーバーオールな山の教科書として1960年の初版以来5カ国語に翻訳され、世界的に愛読されてきた技術書のグローバルスタンダードであるが、最新の考え方や登山技術・装備を取り入れて第7版として2003年に大改定された。本書は登山という営為を『自分自身や他人や環境を害することなく、登山するために必要なスキルと装備と力を持って、山にあることの個々の素朴な歓びを総合した概念』と定義し、“全て自己責任のもとに”、“安全を何よりも優先し”、“山の自然環境や山岳地帯に住んでいる人々のコミュニティーを壊すことなく”、登山の高みを目指すという通底思想のもとに編集されている。書かれている内容が初歩のレベルから経験者レベルまで網羅されており、またジャンルも多岐にわたっているために、一見百科全書的にも見えるが、その記述は詳細で、登山の理念は深遠である。これから登山を始める人の教科書としても、またベテランが更なる高みをめざすための教科書としても役立つと思う。

アメリカで発行された本であるから、我々日本人にはやや奇異に感じられる記述もあるが、彼我の登山事情や考え方を比較してみるのも興味深いことである。また、邦書ではあまりお目にかかれない氷河登高技術の解説も貴重であろう。海外登山に出掛けられる方々には、現地での異国の登山者とのコミュニケーションにも役立つのではなかろうか。邦訳は無いが、文章は平易で読み易い。
Steven M. Cox & Kris Fulsaas編、The Mountaineers Books,Seattle WA、2003年発行、$29.95 US。 (酎)

 


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